竹田城跡の大手道石段の下に瓦 遺構調査で古い石積みも発掘
2021年02月19日 のニュース

「天空の城」として人気の竹田城跡(兵庫県朝来市和田山町竹田)で、大手道の石段の下から瓦や古い石積みが発掘された。調査した朝来市教育委員会は、竹田城の成り立ちを解明していく上で貴重な発見となったとしている。
朝来市は基本計画に基づき、2018年度から竹田城跡の整備事業を手がけている。いくつかの工事が計画され、これに先立ち遺構の残存状況を把握するための現状確認調査を毎年続けている。今年度調査をしたのは大手門に続く大手道枡形虎口周辺と、南千畳虎口。市教委が14日に調査結果の一般向け現地説明会を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言を受けて中止し、代わって17日に報道機関向け説明会を開いた。
竹田城跡は円山川(朝来川)や、但馬と播磨、丹波を結ぶ街道を見下ろす標高約350メートルの古城山の山頂に築かれている。天守台を中心に3方向の尾根に石垣を巡らせ、曲輪や竪堀などを配置して守りを固めていた。「石垣のある山城として希有」だと、昭和18年(1943)に国史跡となった。
但馬守護の山名宗全が、配下の太田垣氏に命じて築城し、嘉吉3年(1443)に完成。太田垣光景が城主となり、7代続いたというのが通説。
その後、織田信長・豊臣秀吉の織豊時代を迎えると、秀吉の但馬攻めで竹田城は落城した。城の主は羽柴秀長、桑山重晴を経て天正13年(1585)、播磨龍野から入城した赤松広秀へと移る。

広秀は慶長5年(1600)、関ケ原の合戦で西軍について丹後田辺城攻めに加わり、西軍敗退後は東軍として鳥取城攻めに参陣。功績を挙げたものの、城下町に放火したことを責められ自刃。竹田城主の座は15年に終わった。
一般には、赤松時代が竹田城の最後とされている。
赤松氏以後の15年間については、竹田城について記した資料がなく、歴史の空白期になっている。
次に明らかになるのは、元和元年(1615)。一帯が生野代官所の支配下に置かれて幕府直轄地となり、この年に制定された一国一城(一つの国に城は一つだけとする)令により、竹田城は廃却されたと考えられてきた。
また竹田城は廃棄後の、石垣だけの絵図しか残っておらず、どの時代にどのような建物があったのかも分かっていない。

いま見られる石垣は、積み方などから赤松時代に築かれたと見られている。
南千畳虎口での調査で、この石垣の基礎部分を調べたところ、一帯には花崗岩の岩盤が広がっていることが確認できた。石垣の基底部まで掘り下げると、石垣は土の上に積んだのでは無く、地山の岩盤を利用して組んだことが分かった。
大手道側の発掘調査では、石の階段を掘り返したところ、下の土の中から屋根瓦が出て来た。これまでも城跡に瓦が残っていたが、今回は石段の下から発掘できたことで、かつて瓦で屋根をふいた建物があり、壊した後に新たに石段を造っていることが分かった。

また、石段の下には、現存する石垣より前の時代の技法「重ね積み」による石積みが出て来た。どの時代のもので、何の石積みなのかなどは今後の検討となる。
発掘調査は竹田城の冬季立ち入り禁止期間を利用しての実施。3月に「山開き」をして、観光客を迎えるまでに掘った溝、遺構などは埋め戻され、再び静かな眠りにつく。
写真は上から順に
写真1=大手道の発掘現場
写真2=石垣が美しい竹田城跡
写真3=石垣は地山の岩盤を利用して積まれていることが確認できた
写真4=石段の下に瓦があった
写真5=石垣より前の時代の石積みが発掘された