戦地からの遺言書は「立派に皇国の為に働きます」

2023年08月14日 のニュース

 多くの命が失われた第二次世界大戦の終結から、15日で78年になる。京都府福知山市夜久野町西垣の飯尾恒昭さん(83)の叔父、飯尾光邦さんも若くして戦地で命を落とした一人。恒昭さん宅には、光邦さんが亡くなる直前に家族に向けて書いた「遺言書(状)」が今も大切に残されている。

 光邦さんは1920年(大正9年)に兄、姉の三人きょうだいの末っ子として生まれ、家族から愛情をたっぷり注がれて育った。

 家族思いな青年で、働いて得た金は全て家に収め、出征が決まって家を出る直前も、「立派な軍人になって、家の名誉となるから安心してください」と話していたという。

 40年(昭和15年)12月に旧陸軍に入営、すぐさま本土を出発し、中国に上陸した。歩兵隊として戦地の前線で任務にあたったが、41年4月19日、現在の浙江省毛草山付近での戦闘中に頭部に銃撃を受け、21歳の若さでこの世を去った。

 遺言書は亡くなる8日前に書かれていて、軍務に励んでいることなどが記されたあと、家族に向けた言葉で締めくくられている。

 「産まれてから二十年の長い年月、一方(ひとかた)ならぬ御世話に成りましたが、何一つ家の為にのこすことも無い自分で有りました。しかし今度、立派に皇国の為に働きます。では皆皆様元気でお暮らし下さい」

 軍事郵便として戦地から家族に宛てた遺言書は、光邦さんの父、杢吉さんの元に届けられ、光邦さんが戦死したことも伝えられた。

 「手紙を書いたときの叔父を思うと、胸が締め付けられるような気持ちになります」と恒昭さん。「今の若い世代の人たちには、戦争は遠く離れた出来事のように思えるかもしれません。ですが、私たちと同じ、福知山で生まれ育った人もたくさん亡くなりました。今の平和な日本は多くの犠牲の上に築かれています。どうか、1年のこの時期だけでもいいから悲しい歴史を思い、二度と愚かな道を歩まない、平和な日本を継続していってほしい」と訴えている。

 

写真上(クリックで拡大)=残された遺言書
写真下(クリックで拡大)=遺言書を見つめる恒昭さん

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