終戦が戦争の始まりだった 元満蒙開拓団の細谷さん
2023年08月09日 のニュース
■一家4人で入植、村は2メートルの土塀で囲む■
細谷さんは1939年に満州北部の北安省に渡り、愛媛、高知、徳島3県出身者で構成された「予土阿村開拓団」の一員として、両親と姉の4人で入植。師範学校を卒業し、開拓団の子どもたちが通う在満国民学校の教師として渡った父・義夫さんに連れられてのことだった。
細谷さんは42年に国民学校に入学。満州での暮らしは「恵まれた自然のなか、牧歌的な生活だった」という。平日は寄宿舎生活で、帰宅した日には農業の手伝い、冬には氷が張った池を手作りのスケート靴で滑ったり、馬にそりを引かせたりして遊んだという。
日本人に土地を追い出され、強盗などをする匪賊(ひぞく)となった現地住民への備えのため、村落は2メートルほどの土塀で囲まれていたが、「中国人との軋轢(あつれき)や戦況の重大さは一つも体感しなかった。思えば、親たちが子どもの庇護に尽力してくれていたんだろう」と振り返る。
■武装解除後の9月に父、逃避行で妹弟3人亡くす■
事態が大きく変わったのは45年夏。北方のソ連軍の侵攻も目前となり、7月末には点在していた各部落から開拓団員が病院や校舎に避難し、でんぷんで作った飴や馬の干し肉などの保存食を準備して立てこもった。
武装解除となった敗戦後の9月6日、積年の恨みが募った現地住民数十人の襲撃。当時校長だった義夫さんが隠し持っていた日本刀で応戦したが、銃撃を受け重傷を負い、10日後、帰らぬ人となった。
10月初旬、開拓団の逃避行が始まり、貨車の一種・無蓋(がい)車を乗り継いで南下することに。移動中、飢えと寒さで人が倒れていくなか、入植後に生まれた妹のみのりちゃん(3)、恵ちゃん(1)が亡くなった。
到着した奉天省撫順の炭鉱夫宿舎で越冬が始まったが、床下を温めるオンドルには火が入らず、母とくっつき、縮こまって寒さをしのいだ。中国人に雇ってもらって稼いだ金で食べ物を買い、飢えが限界になった時、屋台からまんじゅうを盗んだこともあった。
そして12月、弟の拓君(5)も息を引き取った。みんな遺骨を持ち帰ることはできなかった。
予土阿村開拓団の死者数は129人で、ほとんどが学齢以下の子ども。開拓団全体では8万人が寒さや集団自決で亡くなったとされる。「国からの支援はなく、本当に帰れるのか不安だった」
■国民の協力がないと戦争は始まらない■
細谷さんと母・さえ子さん、姉・幸さんは46年7月に帰国。しかし数年後、さえ子さんが腸結核で亡くなった。細谷さんは、高校生ぐらいまでは亡くなった5人が夢に出てきて胸が締め付けられたという。「今では夢に出てくることはないが、忘れることはない」。
成人して教師となり、市内の小学校で勤務。心の傷跡は癒えず、満州での話はしてこなかったが、今は福知山平和委員会などに所属し、「後世に残さねば」と体験を伝えている。
「国民の協力がないと戦争は始まらない。国民を戦争に向かわせる国になってはいけないし、国民も応じてはならない」
写真上から(いずれもクリックで拡大)
・開拓団が入植した位置が記された地図
・校長だった時代の義夫さん
・1941年ごろの予土阿在満国民学校の写真
・5人の名前が刻まれた墓標と細谷さん