本能寺の変は「四国が引き金」 歴史講演会で井沢元彦さん
2022年06月24日 のニュース
福知山の城下町を築いた明智光秀にまつわる歴史講演会が、京都府福知山市中ノの市厚生会館でこのほど開かれた。福知山ロータリークラブが一般公開し、作家で大正大学客員教授の井沢元彦さんが、本能寺の変の動機など光秀を掘り下げて話した。両丹日日新聞社など後援。
井沢さんは、TBS報道記者時代に江戸川乱歩賞を受賞して31歳で退社。作家活動に専念して歴史推理、ノンフィクションに独自の境地を開拓し、週刊誌などで連載している。主な著書に「逆説の日本史」がある。
講演会のテーマは「逆説の日本史 明智光秀公編」。井沢さんは、光秀が主君の織田信長を討って歴史を動かした本能寺の変の要因について「決意の直接のきっかけは四国問題」と切り込んだ。
四国に勢力を伸ばしたい信長の命を受けて、四国内で有力大名だった長宗我部元親との信頼関係を築こうと、光秀は腹心である家老の妹を長宗我部に嫁がせるなど心血を注いだ。
「ところが長宗我部が四国のほとんどを奪ってしまい、『四国全部をやるつもりはない』と、信長が手のひらを返し長宗我部をやっちゃおうとなった」と持論を展開した。
信長の剛腕ぶりを現代の企業経営に例えた井沢さん。「ブラック企業ですから、残業から帰ろうとしたら信長社長が最後まで残っていて『もう帰るのか?』、朝早くに来たら『遅いな』って言われる。光秀の方が年上ですからたまったものじゃない」。そもそも天皇こそが国の要とする光秀は、天皇を超えたい信長の言動を「ハラハラとみていたはず」と続けた。
疲れがたまり、命令を忠実に果たそうと頑張っても報われない。そんな状況下で、四国征伐の織田軍が大阪湾を発つ日が本能寺の変のあった天正10年6月2日。信長が討たれたことで四国出征は中止となった。
井沢さんは「光秀の立場になったら分かる」とうなずいた。
写真=光秀について語る井沢さん