亀岡の元館長、福知山史談会で光秀語る
2024年03月06日 のニュース
郷土史愛好者らでつくる福知山史談会(河波司会長)はこのほど、京都府福知山市中ノの市厚生会館で歴史講演会を開いた。元亀岡市文化資料館長、黒川孝宏さんが講師を務め、戦国武将・明智光秀が築いた亀山城の歴史を絵図や周辺の地形図を使って解説。同じく光秀が手掛けた福知山城との共通点も話した。
演題は「明智光秀公ゆかりの丹波の城~亀山城を中心に~」。
亀山城は、丹波の平定を目指す光秀が、天正5年(1577)ごろ亀山(現亀岡市)に築いた。黒川さんは亀山城を地理的観点などから分析し、資料から読み取れる光秀の築城の手腕を解説した。
■街道と水運を支配した知将■
亀山は、山陰、丹後、篠山方面と京都をつなぐ、交通の要衝だったことに加え、近くを保津川(桂川)が流れていた。川は水運に役立つ一方で氾濫のリスクも高い。しかし、光秀は巧みに地形を読み、河岸段丘を生かして水害を避けた城下町や城を築き、以降の領国経営の拠点とした。
同様の手法は福知山でも見られるといい、黒川さんは「光秀は街道と水運を支配した知将」とし、現在の丹波の発展の礎を築いた立役者とも語った。
亀山城は、慶長15年(1610)に当代屈指の築城の名手と評された藤堂高虎により、全国で最初の層塔型五重の天守を持つ城となったが、明治維新後の新政府によって解体。現在は堀や石垣のみが残る城跡となっている。
黒川さんは「まちのシンボルとして天守閣が残る福知山城を、同じく光秀に縁のある亀岡市に勤めていた者としてうらやましく、悔しくも思います」などと語り、会場の笑いも誘っていた。
写真(クリックで拡大)=光秀の築城の手腕について解説した黒川さん