親孝で殿から褒賞、芦田為助の350年忌法要営む 土師の圓覚寺で

2026年05月16日 のニュース

 江戸時代前期に土師村で暮らし、孝行息子として福知山城8代城主、松平忠房から褒賞を受けた芦田為助の350年忌法要が15日、京都府福知山市土師の曹洞宗・圓覚寺(成田大航住職)で営まれた。第13代当主芦田満さん(69)=土師=ら芦田株の人たちが参列し、当時の儒学者がまとめた「丹州孝子伝」に記されている為助の孝行ぶりを聞くなどし、遺徳をしのんだ。

 為助は1620年ごろに生まれ、今の土師地区で貧しいながらも一生懸命に田畑を耕し暮らしていた。父母の言うことを素直に聞く人物で、隣の里まで知れ渡るほどだったという。

 例えば、寒い夜になればむしろを自分の体で温めてから両親を寝かせたこと、食べるものが少ない時は父母に譲って「食べ物は十分にある」と言って安心させていたこと、雷を恐れていた母のため、雷が鳴るとずっとそばで寄り添い、母が亡くなってからも雷が鳴る日は墓まで行くほどだった-など、さまざまな逸話が伝承されている。

 また、町へ買い物に行くとき、父から「きょうは天気が良いから草履を履いていきなさい」と言われ、母からは「雲行きが怪しいので下駄を履いていけば」と勧められ、悩んだ末に父母の思いを取り入れて、「左足に草履、右足に下駄」を履いて出掛けたという話もあり、現当主の芦田さん宅には、その姿を模した掛け軸が残る。

 こういった親孝行ぶりが時の城主、忠房の耳に入り、為助に褒美として金を与えた。褒美は兄に譲ったが、兄は為助が認められたことによるものとして断り、為助は家のなかに大事にしまうことにした。このやり取りを知った忠房は感心し、為助に土地の所有を許し、課税を免除することにしたという。

 さらに忠房は江戸へ参勤した際、儒学者の林春斎に、為助の孝行話を文書に残すように依頼し、春斎は「丹州孝子伝」としてまとめた。為助のことは会津藩の藩校で使われた教材で利用され、文豪・川端康成の作品で取り上げられるなど全国的な知名度となった。

 地元では明治期に土師天満宮の参道に、有志が「孝子芦田為助之碑」を建碑。近年では福知山昔話紙芝居同好会が『こうこうタメスケ』という紙芝居にするなど、今も語り継がれている。

 為助は1677年6月17日に亡くなった。芦田株の人は毎年そろって墓参しているほか、今では50年ごとに年忌法要を営んでいる。

 350年忌法要には、1歳から91歳までの8家族23人が参列。為助と妻が眠る墓地に親族が集まり、成田住職、宗寛副住職がお経を唱え、参列者が焼香。本堂では、招いた土師保育園の年長児に芦田さんが、為助が両親に優しくしていたエピソードを分かりやすく聞かせながら、「人に優しく接し、家族を大事にし、困っている人を助けてほしい。『ありがとう』という言葉を交わし、優しさを持つと、楽しい人生になると思います」と伝えた。

 宗寛副住職の法話のほか、同昔話紙芝居同好会が『こうこうタメスケ』の紙芝居、綾部市の住職が手品を披露し、園児たちを楽しませた。

 続いて法要があり、参列者は飾られた掛け軸と位牌の前で焼香。先祖の行いについて「ずっと語り継がなければいけない」との思いを強くしていた。

写真上(クリックで拡大)=掛け軸の前で為助の逸話を話す芦田さん
写真下(クリックで拡大)=園児がこうこうタメスケの紙芝居を楽しんだ

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