「忠臣蔵」の内助の功 豊岡で大石内蔵助の妻・りくの企画展

2022年10月30日 のニュース

 「忠臣蔵」の大石内蔵助の妻、大石りくの生涯を紹介する企画展「大石理玖と豊岡」が、豊岡市立歴史博物館(兵庫県豊岡市日高町祢布)で開かれている。理玖が生まれ、「りく娘」らがパレードする「大石りくまつり」が2017年10月まで開かれていた豊岡だが、その生涯を取り上げる展示は、これが初めて。

 忠臣蔵は江戸時代に起きた赤穂事件をもとにした話で、当時から歌舞伎や人形浄瑠璃などで人気を呼んだ。昭和の時代になっても多くの映画が作られ、テレビも年末になると放送するという、風物詩でもあった。

■浅野内匠頭刃傷 元禄の赤穂事件■

 赤穂事件が起きたのは元禄14年(1701)3月14日。播州赤穂の藩主・浅野内匠頭が江戸城内、松の廊下で吉良上野介を切りつけ、額にけがをさせた刃傷事件で、内匠頭は即日切腹となり、浅野家は取り潰し。ところが、けんか両成敗とされるはずが、一方の上野介は、おとがめなし。この処分に納得いかないとして、赤穂藩の藩士たちが再就職(仕官)せず浪人となり、苦難を重ねて翌年の12月14日夜、江戸の吉良邸に討ち入り、主君のかたきを討った-とするもの。

 討ち入りをしたのは47人。足軽の寺坂吉右衛門を除く、武士46人が切腹となったものの、「義士」「四十七士」とたたえられ、「赤穂浪士」は絶大な名声を得た。

 その中心となったのが筆頭家老の大石内蔵助。夫を支え、内助の功と称賛されたのが妻の、理玖だった。

 生まれは寛文9年(1669)。丹後田辺藩(現舞鶴市)から移ってきた豊岡藩京極家の筆頭家老・石束家の長女。屋敷は藩の陣屋の前、いまの豊岡市立図書館の前の駐車場あたりとされている。

 大石家へ嫁いだのは理玖18歳、内蔵助28歳の時とされる。石束家1200石、大石家1500石と記録されている。嫁ぎ先の邸宅は赤穂城の三の丸を守る重要な場所にある屋敷だった。

 塩を産出して豊かな赤穂藩にあり、おだやかな毎日を過ごしていた大石夫妻を、浅野家お取り潰しという悲劇が襲い、その後の人生が大きく変わった。

■寺へ送った礼状に「内蔵助本望遂げ」■

 企画展では、理玖の生家が分かる城下絵図、内蔵助が理玖の父に宛てたおだやかな日常がしのばれる手紙、討ち入り後に、理玖が寺院へ書いた礼状などが展示してある。

 礼状は仮名消息と呼ばれる女性特有の書き方になっており、「日々江戸表で首尾よく仇討ちが果たせるようにとの御祈念下さったとの事、何よりそれゆえ大いに力づけられ(略)御祈りのおかげにて、このたび内蔵助はじめ、いずれも敵に対し思うままに本望を遂げられました」などと記している。

 江戸時代の女性の手紙が残されることは少ないが、理玖の手紙が残されている点について、企画展を担当する同館学芸員の西谷昭彦さんは「赤穂事件で大石内蔵助が有名になり、その妻として理玖も有名になったことで、手紙や資料がたくさん残されることになりました」と、説明。「それだけの人物が豊岡にいたことを知ってほしい」と話している。

 理玖は「松の廊下」以降に5人目の子どもを身に宿し、内蔵助は「安心して出産できるように」と理玖を豊岡の実家へ帰らせた。さらに、妻子へ罪が及ぶことを避けるため討ち入り前になって理玖を離縁した。企画展では、その後の数奇な運命も、資料を添えて紹介している。

 会期は11月29日まで。時間は午前9時から午後5時までで、水曜(祝日の場合翌日)休館。一般500円、高校大学生300円、小中学生250円。電話0796(42)6111。場所は北近畿豊岡自動車道の日高神鍋高原インター出口の国道を右折してすぐ。

 

写真=書状や絵図、大石内蔵助の盃などを展示した館内

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