丹波福知山から九州へ-久留米で有馬豊氏入城400年企画展 21万石の11代を紹介

2021年07月02日 のニュース

 戦国時代に出世を重ねた大名・有馬豊氏が、福知山から国替えになり、久留米城に入って400年。福岡県の中核都市・久留米市で「久留米入城400年」事業が、年間を通じて取り組まれている。久留米城跡内の有馬記念館では、記念企画展「久留米藩主有馬家歴代」が開かれている。

 豊氏は早くから豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は徳川家康に従い、慶長5年(1600)の「関ケ原の合戦」後に福知山6万石を得た。父の則頼が亡くなると則頼の所領だった摂津国三田(三田市)を加え8万石となり、福知山の城下町整備を進めて元和6年(1620)閏12月に筑後国久留米21万石を与えられた。

 福知山から家臣や商人らを引き連れ、翌年3月に久留米城へ入った。以後、則頼を藩祖、豊氏を初代として明治まで約250年、有馬家が11代にわたり九州の重要拠点の久留米を治めた。

 久留米転封にあたっては寺院も、いくつか福知山から移している。有馬家菩提寺・梅林寺は、福知山で瑞巌寺と呼ばれていた寺。1630年に、則頼の院号を寺の名前とした。位牌などが納められた木造建造物の霊屋が残り、2018年に国の重要文化財指定を受けた。

■戦功重ね茶の湯に通じ、福知山の城下町を整備■

 有馬一族は、室町時代に播磨守護職・赤松則祐の子が、摂津国有馬郡を領有して有馬を名乗ったのが始まり。戦乱で没落していたが、7代後の則頼が豊臣秀吉配下となり、天正8年(1580)の毛利攻めの戦功で播磨国淡河(神戸市北区淡河町)3200石を得た(後に1万5千石に加増)。豊氏は父とは別に戦功を重ね、文禄4年(1595)に遠江国横須賀(静岡県掛川市)3万石を得た。

 関ケ原では、前哨戦となる、家康出馬第一戦で西軍の勇将を討ち取り、「幸先良し」として家康から褒賞されている。

 福知山を領したのは約20年。当初の6万石は福知山市の多くと綾部市の一部だった。明智光秀が基礎を築いた城下町を本格的に整えて近世の城下町としており、この経験を生かして久留米の城下町を整備した。

 福知山から一緒に移った商人たちは久留米の地に根を下ろして家業に励み、400年の歴史を刻んでいまも続くお香の店、畳店がある。

 久留米の21万石という規模は当時の全国で20番目の石高だった。久留米城は篠山城とも呼ばれ、いまは石垣と堀跡が残っている。

 企画展では千利休の高弟でもあり文武に通じた有馬豊氏の肖像画(篠山神社蔵)、幕末動乱に翻弄され最後の藩主となった第11代頼咸の具足などを展示している。

 会期は8月2日まで。有馬記念館=電話0942(39)8485=、久留米市、市教育委員会、公益財団法人有馬記念館保存会主催。火曜休館。一般210円、高校生以下無料。企画展は3回シリーズとしていて、8月14日から「有馬の城づくり、町づくり」、12月11日から「久留米藩領文化」を開く。
 
 

写真上=家康が豊氏に宛てた書状や歴代藩主の描いた水墨画など様々な資料を展示する館内
写真下=練革黒漆塗白糸威五枚胴具足=11代藩主のもの。2年におよぶ修繕後、初公開している

有馬豊氏肖像画=左向きの姿で描かれる遺像(没後に描かれた肖像画)。晩年の豊氏を上畳に座す束帯姿で描いており、威厳を感じさせる。大名の序列を決める指標の1つである武家官位が、四位以上の者が着る事を許される黒の袍(束帯着用時の上着)を着用している

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