信長にとっての光秀 石山合戦から専門家が読み解く
2020年02月28日 のニュース

郷土史に興味、関心のある同好者でつくる福知山史談会(芦田精一会長)はこのほど、京都府福知山市役所隣のハピネスふくちやまで、総会記念講演会を開いた。大阪歴史博物館の副館長、大澤研一さんが「明智光秀と石山合戦」と題して講演。集まった歴史ファンら70人が、熱心に耳を傾けた。
石山合戦は、元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続いた織田信長と石山本願寺(大坂本願寺)勢力との戦い。大澤さんは、この合戦を取り上げ、信長に仕えていた光秀の立ち位置を分かりやすくひもといていった。
信長は、なぜ本願寺勢力と戦ったのか-について大澤さんは「信長は、京都などに近く、海があって交通の便も良い大坂を手中に収めたかった」などと説明した。
この合戦のなかで光秀は、天王寺の戦いや紀州雑賀攻めなど、本願寺のおひざ元における戦争に広く参陣。
摂津・河内での戦いでは、荒木村重、細川藤孝が主力の戦いにもかかわらず、信長が「判断は光秀に任せる」と指示していることなどを挙げ、「軍事上では藤孝らより立場が上で、信長にとって重要な人物だった」と解説した。
写真=信長にとっての光秀の立ち位置などを説明する大澤さん