予習・復習! 明智光秀

2020年NHK大河ドラマ 「麒麟がくる」が待ちきれない!

 来年のNHK大河ドラマは明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」。タウンタウンのエリア内は、ゆかりの地がいっぱいで、早くも先取り人気で観光客が増え始めている。外からのお客さんばかりじゃなく、地元も楽しみたい! 

 ということで、知っているようで知らない明智光秀と丹波、丹後の関係を今のうちから予習復習しちゃいましょう。

【福知山城を築き、城下町を整備】

 明智光秀を語るうえで欠かせないのが福知山城。光秀が築き、福知山市民が再建した。

 天正7年(1579)に丹波を平定した光秀が、石垣を積み上げ、天守閣を築いて「福知山城」と名付けた。同時に治水工事を行い、人びとが安心して集まれるようにし、税金も軽減して城下町を整えた。これが商都「福知山」の始まり。

 築城の際に、どっこいしょ、どっこいしょと石垣を運び上げた身振り手振りから「ドッコイセ」福知山踊りが生まれ、福知山音頭は「明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山」など、光秀を慕う歌詞が歌い継がれてきた。

 市街地の中心にある御霊神社は光秀を祭り、春のお城まつりをはじめ、様々なイベントが神社前の御霊公園をメイン会場に繰り広げられる。

福知山城
福知山城光秀が築き、昭和61年(1986)に市民募金で再建した
■福知山市内記5/9:00~17:00/火曜日休館/TEL0773-23-9564/料金:大人320円、小中学生100円

【教養人で愛妻家 異色の戦国武将】

 明智光秀はどんな人だったのか。織田信長に仕えるまでの前半生はよく分かっていないが、信長の家来として各地で功績を挙げた武将であり、教養豊かな文化人でもあった。当時としては珍しく側室を持たず、妻・煕子(ひろこ)だけを愛し続けた。

 そんな二人を見て育ったのが、娘の玉(珠)。後の細川ガラシャ。数奇な運命に翻弄されながらも強い愛を貫いた。

 有能だった光秀が最も苦労したのが丹波攻めだったかも知れない。5年の歳月を要している。特に「丹波の赤鬼」こと赤井直正の居城、黒井城攻めは戦国史に残る厳しい戦いとなった。

 そして丹波平定から3年後の天正10年、本能寺の変で織田信長を討った光秀。「天下の謀反人」とのレッテルを貼られ、なぜ謀反を起こしたのかが多くの研究者たちの間でいまなお論争となっているが、ことは下克上の戦国時代。当時としては、ごく普通の行動でもある。いまの論争を光秀本人は、意外に思っているかも?

福知山城の石垣。「野面積み」という技法で自然石を巧みに積み上げている。お寺にあった五輪塔や宝篋印塔なども使われていて、旧勢力から織田家の時代になったことを示したとも言われている。ハートの形をした石もあるので探してみて

福知山城築城時の身振り手振りが元になっている福知山踊り

善政を敷いた光秀をしのび、町衆が祭った御霊神社
■福知山市中ノ238 ☎0773-22-2255

丹波・丹後にゆかりの地

宮津市万町
玉と光秀が最後に会った大窪城

 天正8年(1580)、夫の細川忠興と共に宮津に入った光秀の娘・玉は、新城が完成するまで万町の桜山付近にあった大窪(大久保)城で暮らしたのではないかと言われている。翌年春には光秀と細川藤孝、忠興親子の茶会が開かれ、玉と光秀の最後の出会いの場となった。

【写真】平成25年(2013)、生誕450年を記念して宮津城跡に建立されたガラシャ夫人像

桜山の本荘神社の奥にある大窪城跡から宮津の市街地を望む

上宮津の盛林寺に残る光秀の首塚。首は玉に届けられ供養を受けたという

丹波市春日町
黒井光秀と2度戦い苦しめた黒井城

 織田の軍門に下らず、光秀と戦い退けた「丹波の赤鬼」こと赤井直正という武将がいた。その名は全国にとどろき、甲斐武田の「甲陽軍鑑」に「名高き大将衆」13人の筆頭で記されている。「悪右衛門」とも名乗った豪傑で、氷上郡のほか天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。

 その居城が黒井城。標高356mの猪ノ口山全体に曲輪や土塁、堀切などの防御施設を巡らせた巨大な要塞だった。しかし難攻不落の山城をもってしても、天正6年(1578)に直正が病没すると、光秀2度目の黒井城攻めで翌年8月9日に落城した。城跡には「急坂コース」と「ゆるやかコース」で登ることができる。平成元年(1989)国史跡に指定された。

【写真】山頂では本丸を取り巻き約5mの段差で野面積みの石垣が残る

【写真】黒井城の下館(現在の興禅寺)は、春日局の生誕地としても知られている

京丹後市弥栄町味土野
細川ガラシャ夫人隠棲地

 天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起き、6月13日に光秀が秀吉に敗れると、忠興は離縁・幽閉という形で玉を領内の山奥深くにかくまった。これは忠興が玉を守ろうとした選択に違いない。その証拠に、玉は2年後、秀吉に許されて、再婚の形で細川家に戻る。幽閉を解かれてからキリスト教の洗礼を受け、ガラシャとなった。

【写真】すれちがいも難しい味土野へ向かう山道の途中にあるガラシャ大滝

【写真】ガラシャが暮らした女城跡にひっそりと立つ「細川忠興夫人隠棲地」の碑

【写真】周囲には井戸やガラシャが信仰した観音跡が残る

舞鶴市南田辺
細川氏の居城、田辺城

 天正8年(1580)、丹後国を領国とした光秀の盟友・細川藤孝、忠興親子が、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築いた。本丸付近は現在、舞鶴公園になっている。

【写真】「舞鶴」の地名は、この城の雅称「舞鶴城(ぶかくじょう)」に由来するという

田辺城資料館
9:00~17:00/月曜(祝日の場合翌日)休館/TEL0773-76-7211/大人200円、小中高大生100円

2019年5月25日号掲載

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