ビルマの戦地で散った母の兄 遺品の中に出征時の旗やたすき 80年の時を経て今に残る 悲惨さと家族の絆知った 長田段大西さん
2026年08月15日 のニュース
母は旧海軍工廠で爆弾投下を目撃
旧加佐郡河東村夏間(現福知山市大江町夏間)に生まれた克己さんと和子さんは13歳差の兄妹。祖父は教師、祖母は医者の娘で、比較的裕福な家庭で育った。和子さんは当時の淑徳高等家政女学校に通っていたが、戦時中、学徒動員により旧舞鶴海軍工廠で兵器製造などに従事した。
「母は工廠内での食事事情や機密性の高い工場へ行く際は目隠しをされたこと、終戦間際に工廠近くへ爆弾が落とされ、海の水しぶきが空に届きそうなほど高く上がったことなどを、時折話してくれました」と大西さん。
一方で、兄の戦争体験について語ることはほとんどなかった。ただ、ビルマで戦死したことや、戦後に届けられた遺骨箱には遺骨ではなく小石が入っており、「カラン」と寂しげな音を立てた-という話は聞いたことがあり、今でも印象に残っている。
遺品が入った箱は、和子さんが亡くなり、入所していた施設から荷物を持ち帰った際に見つけたもの。幟旗や日章旗、たすきのほか、戸籍謄本や勲章、戦地から和子さんへ宛てたハガキなどが収められており、幟旗やたすきは出征時に撮影された家族写真でも確認できた。
日章旗に多くの名前「慕われた人だった」
資料が見つかって以降、大西さんは適切な保存先が見つかればと、府内の遺族団体などに相談したが、受け入れ先は見つからなかった。しかし、その過程で舞鶴引揚記念館を訪れた際に、職員から克己さんが参加したとみられるインパール作戦について、詳しい話を聞くことができた。
悪化する戦局を一気に打開しようと、補給線を軽視した無謀な作戦により、兵士たちはビルマの険しい山岳地帯で食糧不足や疫病に苦しんだ。多くが目的地に到達することさえできず、餓死や病死したという。
あまりにも残酷な事実に大西さんは大きなショックを受けた。
ただ、職員はこうも語った。「出征までの時間は限られるなか、日章旗にこれだけの数の名前が書かれているものは見たことがない。多くの人に慕われた人だったのでしょう」
直接会ったことのない伯父だったが、その言葉を聞いた時、自然と涙があふれた。
1枚のハガキに妹への優しい言葉
残されていた戸籍謄本によると、克己さんは1944(昭和19)年7月23日に戦死した。27歳だった。亡くなる前年には結婚したことも記されていた。
克己さんが和子さんに宛てた1枚のハガキには、「春らしくなってきましたね。丈夫で通学していますか。兄さんも元気で軍務に励んでおります故ご安心ください」「一生懸命に勉強してください」などとつづられており、戦地にあっても妹を思う兄の優しさと、家族の絆が垣間見える。
終戦から80年以上が過ぎ、戦争体験を直接語れる人は少なくなった。それでも、残された資料は、戦争が多くのかけがえのない人の命を奪い、その家族にも深い悲しみをもたらしたことを静かに物語る。
大西さんは今後、資料を戦争の記憶を次世代へ伝えようと活動する市内の団体へ寄贈する予定にしている。
「母が大切に残してきた資料です。戦争を知らない世代が増える中、平和について考えるきっかけになれば」と願う。
写真上から(クリックで拡大)
和子さんが保管していた資料の一部
克己さん(左から3人目)の出征時に撮影された家族写真。右から2人目が和子さん。保管されていた幟旗なども確認できる
多くの人の名前が記された日章旗
戦地から送られたハガキ










