戦地の兵士に梅干しを-大戦のさなか植えられた梅 残る木に不戦の思い託す 大江町波美廣瀬さん宅

2026年08月14日 のニュース

 京都府福知山市大江町波美、廣瀬敬治さん(77)宅の玄関前に、古い梅の木がある。第二次世界大戦のさなか、異国で戦う地元出身の兵士に梅干しを送ろうと考えて植えられた-との逸話が残っている。今でも樹勢は強く、廣瀬さんは世界各地で戦争や紛争が絶えない中で、不戦への思いを託す大切な木として、後世に伝えていきたいと願う。


皇紀2600年に旧河守町が配布

 梅の植樹の取り組みは、神武天皇即位を紀元とする皇紀2600年にあたる昭和15(1940)年に、当時の河守町が、日中戦争や第二次世界大戦で戦う兵隊さんに梅干しを送って元気付けようと計画。町内の各戸に苗木を配った。

出征した父への思いを込め育てる

 廣瀬さん宅でも受け取り、玄関先に植えた。このころ廣瀬さんの父、初男さんは中国(満州)を中心に出征。初男さんへの思いを込めて、祖母ふじさんら家族が大切に育てた。

 梅は苗木を植えてから実がなるまで3~4年かかるとされる。どの家庭も「早く大きくして、できた実を兵隊さんに送ろう」と、競うように世話をした。

実がなったのは戦争が終わってから

 戦後生まれの廣瀬さんは、ふじさんから当時の様子をよく聞かされた。廣瀬さん宅では、植えてから5年以上かかってようやく実がなったが、そのころには戦争が終わっていて、戦地へ送ることはなかった。

 初男さんは終戦の年、1945年の年末に帰還。梅の木の取り組みは古里に戻ったあと家族から聞いたという。


水害にも耐えて今は高さ5メートルに

 梅の木は、その後も順調に大きくなった。昭和28年に起きた大水害「28水」時に被災し、水につかったが無事だった。実もたくさんでき、食卓に出され、初男さんも食べた。木は飼っていた牛をつないでおくのにも使った。「牛がするおしっこが肥料になり、木の成長を早めたのでは」と廣瀬さんは笑う。

 廣瀬さんが5、6歳のころ、落下した青梅の実を食べてひきつけを起こした。青梅には毒素があり、生のまま食べてはいけないが、それを知らなかった。木のそばで倒れていた廣瀬さんを家の人が見つけ、すぐに病院へ行き、事なきを得た。「真っ青になっていた私の顔が、病院で注射を打ってもらうと、赤く戻ったと聞かされています」と振り返る。

 現在木の高さは約5メートル、幹の直径は30センチほど。すでに植えてから85年以上になるが、毎年せんていをしているため樹勢は強く、今でも毎年6月になると実を収穫。今年は少なかったが、昨年は約15キロがとれ、梅干しのほか梅酒にして、近所にも配った。

伐採が計画されたがそのまま残すことに

 40年ほど前、自宅に車庫を作る際に梅の木が邪魔になるため、伐採が計画されたが、記念の木なので、そのまま残すことにした。

 初男さんは中国では、氷点下20度の極寒の地で戦い、大変な苦労をしたという。廣瀬さんは「戦後、梅の木のことなどは、戦争を思い出すのであまり話したがらなかったが、テレビで戦争の場面が映ると『戦争だけはあかんでよ』とよく言っていました」と振り返る。

 「何とか木が元気なうちは、見守っていきたい」という廣瀬さん。「平和な世の中であり続けてほしい」と強く思っている。



写真上から
(クリックで拡大)
廣瀬さんの家の玄関前に植えられた梅
木の樹勢を見る廣瀬さん
今年もなった梅の実
とれた梅は梅酒にして味わっている

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