阪神・淡路大震災31年「あの日、支援の現場で」(下)福知山署 建井秀之署長、岡山雅一副署長
2026年01月17日 のニュース
被災地で向き合った命と責務 救助、治安維持活動に従事
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、死者約6400人、負傷者4万3千人以上にのぼる未曽有の大災害となった。都市は一瞬で機能を失い、人々の日常は瓦礫の下に押しつぶされた。混乱のさなか、京都から警察官たちが現場に駆け付けた。その中に若い機動隊員、現在は福知山署に勤務する建井秀之署長(58)、岡山雅一副署長(59)の姿もあった。
岡山副署長が当時所属していた府警本部の機動隊は、発災当日の午前9時ごろ、招集を受けて兵庫県警西宮署へ向け出動。渋滞や道路の損壊で通常の倍の時間をかけて到着した同署周辺では、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った人たちが寒空の下、署の敷地や道路脇に身を寄せていた。中には倒壊した家から家族を救おうと、素手で壁や屋根を必死にめくる人もいた。その姿が脳裏に焼き付いている。
組織として動くもどかしさ
震災当日、被災地には京都府警を含む近畿の各警察から応援に駆けつけており、部隊編成などのため、岡山副署長たちは大阪府内の集合場所に引き返す指示を受けた。
被災地にいながらも現場を離れなければならない-。もどかしさを抱えたまま西宮署を後にしようとした時だった。50歳ぐらいの女性が車両の前に立ちはだかり、「主人を助けてください」と涙ながらに訴えてきた。
「胸が締め付けられる思いでした。しかし、我々は組織として動いている。『行くところがある。順番に回ってくるので待って』とお願いするしかなかった。あの時の歯がゆい気持ちは今でも忘れられません」
その日の午後、部隊は再び西宮市内に入り、以降は戸建て住宅やマンションの倒壊現場で懸命な救助活動にあたった。しかし、3日目の朝までに生存者を救出することはできなかった。
一週間の活動 救えた命は
地震発生から50時間以上が経過し、現場には警察や自衛隊に重機が加わり、本格的な掘り起こし作業が始まっていた。
若い両親の遺体が見つかったが、息子の10歳男児の行方が分からなかった現場で作業にあたっているとき、重機の轟音が響く中、かすかな声が聞こえた。
男児はマンション倒壊の際、勉強机の下に体が入り、わずかな空間で命をつないでいた。無事に救出され、現場の緊張が一瞬、緩んだ。
1週間の活動で救出できた生存者はこの男児、一人だけだった。
「現場でご遺体を搬出した際、ご家族が手を合わせる姿がありました。中には、私たち警察官にも手を合わせる方もおり、その情景が強く印象に残っています」
崩れた街で秩序を守る
向日町署の第二機動隊に所属していた建井署長は、震災発生から数日後に被災地に入り、神戸市中央区で治安維持活動に従事した。地元警察によると、被災家屋からの窃盗、夜間に女性を狙った性犯罪などが発生していたという。
「震災前に訪れたことのある場所でしたが、ビルは傾き、高架下は廃虚のようで、とても人が暮らせるような状態ではなかった」と振り返る。
被災地では水道設備が壊滅、水は使用できなかった。公園などの公衆トイレも水が流れず、ひどい状態の所もあった。
そうした状況の中、2交代制で24時間巡回を続け、災害に便乗した犯罪や不法投棄の取り締まりにあたった。被災者の命と財産を守ると同時に、街の秩序を維持し、混乱が広がる中で人々の生活を支えることに努めた。
経験を引き継ぐ
阪神・淡路大震災を契機に、社会や防災の在り方は大きく変わった。警察でも災害警備訓練の強化、レスキュー車やロボットスコープなど装備の充実化が進められた。
一方で、震災から30年余りが経過し、当時を知らない警察職員も増えている。
建井署長は「福知山市周辺には6つの活断層があると言われています。南海トラフ地震も含め、いつ災害が起きてもおかしくありません。だからこそ、日ごろからのシミュレーションと訓練が欠かせない。このことを署員にも継続して伝えていきたい」と力を込める。
また、市民の命と安全を守る福知山署のトップとして、「災害警備で最も重要なのは初動です。迅速に立ち上がり、状況を正確に把握する。一人でも多くの命を守れるよう、これからも必要な備えを続けていきたい」と決意を語った。
31年前の被災地での2人の経験と行動が、現在の災害警備に生かされている。
写真上(クリックで拡大)=機動隊として現地で活動した建井署長(左)と岡山副署長
写真下(クリックで拡大)=震災後の神戸市内の様子(1995年1月24日、両丹日日新聞社撮影)









