昭和2年の丹後震災 救援した福知山の公文書発見

2024年05月17日 のニュース

 福知山市の公文書の中から、昭和2年(1927)3月7日に京都府の丹後半島で起きた大地震「北丹後地震(丹後震災)」に関わる資料が見つかった。当時の福知山町の職員が発生からすぐに被災地へ救援に向かった記録などがつづられている。被災地では地震発生から1週間については公文書がほとんど残っておらず、大変貴重な資料とされる。公文書を昨夏に発見後は詳細な調査を進めてきた。解説文などを添え、いま駅前町の市立図書館中央館で展示している。26日まで。

 市と福知山公立大学が、明治時代から昭和30年代までの歴史公文書の調査、研究をしていて、その中から北丹後地震に関わる資料が明らかになった。

 資料は「昭和二年三月奥丹地方震災関係書類綴福知山町役場」「奥丹后震災地慰問日記」「北丹罹災救援大隊活動報告」の簿冊3点。

 北丹後地震は当時の京都府竹野郡郷村(現京丹後市網野町郷)を震源とするマグニチュード7・3の直下型地震で、死者は約3千人に上った。夕食時に発生したため火災が多発し、たくさんの家屋が焼失した。

 当時の福知山町には大きな被害がなく、府知事の依頼を受け、被災地への人員派遣を決めた。奥丹地方震災関係書類綴では、その動向が詳細に記載されている。

 地震発生翌日の8日朝に、役場職員だけでなく、消防組や在郷軍人会も招集され、148人が救助員として派遣された。その後、医師、看護師も現地に向け列車で福知山駅を出発し、舞鶴の海岸から駆逐艦に乗って宮津に向かった。

 9日に第2回、11日に第3回と救援隊の派遣が続き、10日には、町民らから募った義援金を持参し、被災地の与謝・竹野・中郡に慰問使が配分したことなどが書いてあった。

 奥丹后震災地慰問日記は、慰問使として被災地に向かった職員が記した日記。余震が続く中、被災地で民家が倒壊し、建物の下敷きになった人たちがそのままになっている状況など、現地の様子が生々しく伝えられている。

 北丹罹災救援大隊活動報告は、旧天田郡庵我村役場が作成したもの。天田郡の救援隊が被災地で道路の開通に尽力し、バラック(簡易な建物)の建設をしたことなど、具体的な救援内容が記されている。

 図書館の展示では京丹後市教委から借りた被災地の惨状をとらえた写真パネル10点も並ぶ。会期は26日まで。月曜休館。見学は無料で、開館時間は午前10時から午後8時(土、日、祝日は同6時)まで。

 調査にあたった公立大学地域経営学部の小山元孝教授(51)は「このような記録は被災地では見つかっておらず、被害の少なかった周辺自治体だったからこそ残されていたようです。特に日記は、惨状を前にした職員の沈痛な思いが記されている。災害や防災を考える上で重要な資料となる」と話している。

 

写真(クリックで拡大)=展示された資料と、調査した小山教授

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