阪神・淡路大震災31年「あの日、支援の現場で」(上)元関電社員植村均さん
2026年01月16日 のニュース
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。被災地では復旧のため、多くの人がそれぞれの立場で現場に立った。発生から31年を前に、当時、支援にあたった3人を取材。16日はインフラ復旧に携わった電力会社の元社員、17日は機動隊として派遣された警察官2人の証言から、あの日の現場と、今につながる記憶をたどる。
応援隊として西宮で作業 関電社員植村均さん
震災で、阪神地域を中心に一時約260万戸が停電した。京都府福知山市前田の自治会長、植村均さん(68)は、関西電力の社員として、兵庫県西宮市で電力復旧のための原因調査などにあたった。被災地で過ごした3日間の経験を基に、いつ起こるか分からない地震から住民を守れるような講習会を開けたら-と思い描く。
「えらいとか、しんどいとか思う暇もないほどの3日間でした」
社会人として脂が乗った37歳の時だった。勤務地は京都市内の京都下(当時)営業所。住んでいた大阪府島本町の社宅で激しい揺れに気付き、飛び起きた。営業所に電話をしても通じず、別の社員2人と一緒に、車で京都の営業所へ向かった。
京都市内でも停電が発生していて、次々と作業場所へ向かうよう指示する無線が入り、その日は夜7時か8時ぐらいまで原因調査や簡易復旧工事に従事した。携帯電話は持っておらず、地震被害のすさまじさを知ったのは昼の休憩時。「すごいことが起こっている」と驚愕した。
京都府内の営業所から西宮へ応援に行くことが決まり、地震発生から数日後に出発。損壊した阪神高速道路、倒壊した家屋、傾く電柱などの惨状を目にしながら西宮へ入った。そこの営業所近くをナップサックを背負って歩く人の行列が今でも印象に残っている。
「経験をしたわけではありませんが、(映像で見る)戦争当時のような光景でした」。道路は車であふれていて、ほとんど動いていなかった。
西宮の社員1人、京都の社員2人の計3人で班編成し、昼ごろから営業所管内の停電現場で原因を調査。復旧作業工事に必要な情報を集めた。
応援1日目の夜は営業所で宿泊。暖房はなく、体に新聞紙を巻いてジャンパーを着込み、床の上でほかの社員とくっついて就寝したが、寒くてほとんど眠ることができなかった。
そんな厳しい状況のなか、国内の別の地域の電力会社から弁当、即席めん、パン、栄養ドリンクなどの食料のほか、簡易トイレなどの支援物資が届いた。弁当は冷たかったが、「食事は出ない」と覚悟していた分、感謝しながらおいしく味わった。
復旧させなあかん
3日間で出向いた現場は約100カ所に上ったと記憶する。「きてくれはったん」「ありがとう」と、出向く先々で喜ばれる一方、倒壊した家屋を指さし、「ここでは〇人が亡くなってねえ」とつぶやく人もいた。複雑な感情を抱えつつも、「復旧させなあかん」と電力の復旧を第一に、停電時は特に危険性が高まる感電に細心の注意を払いながらの作業が続いた。
関電のホームページによると、震災発生から1週間で応急送電が完了したという。









