明治支えた「銀の馬車道」生野-姫路結んだ49キロ 沿線市町と県が写真提供呼びかけ

2021年02月04日 のニュース

 日本初の高速産業道路とされ、いまの兵庫県朝来市の生野銀山と姫路市の飾磨港(姫路港)を結び明治9年(1876)に造られた「銀の馬車道」。近代化を急ぐ日本の国家プロジェクトだったが、時代とともに姿が変わってきた。そこで、記録を充実させるため往時の様子が分かる写真の提供を、県と沿線市町が呼びかけている。

 古くから銀が見つかり、戦国期から鉱山開発されてきた生野銀山。「生野を治める者が天下を治める」とされ、時代の鍵を握る場所となってきた。

 乱世を経て徳川の世を迎えても幕府の財政を支え、明治新政府になると外国人お雇い技師を迎えてまた一段と産出量が増える。しかし整備された港のある姫路までは「但馬道」「生野街道」と呼ばれる幅2メートルほどの山道しかなく、荷は人馬で運ぶしかなかった。

 そこで、貴重な外貨をもたらす銀を効率よく運ぶため「生野鉱山寮馬車道」が築造されることになった。これが「銀の馬車道」。

 生野-飾磨港間約49キロで、幅6~7メートル。一定の速度で馬車が走れるよう設計されていて、減速が必要な直角カーブは2カ所にとどめた。極端な高低差が生まれないようにもなっている。ヨーロッパの技術を導入して、雨でもぬかるまないよう小石、玉砂利などを3層構造で敷き詰めて突き固める「舗装」も施された。

 途中に大小22の橋をかけ、周囲の水田よりも60センチ高く土盛りして築き、事業費は1メートルにつき、当時の金額で1円50銭かかった。しかし、それまで1トンの物資を運ぶのに17円29銭かかっていたのが、馬車道だと2円で済む計算でもあった。

 人の往来を制限した封建時代から、人と物が高速で大量に行き交う「新しい時代」を象徴した道路となり、先進の土木技術や物流に伴う経済効果が沿線に大きく広がっていったという。

 生野から更に明延鉱山などまで含めた73キロに及ぶ「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」は2017年、日本遺産に認定された。

 写真を求めているのはこのうち銀の馬車道について。個人宅などに眠っている明治から昭和初期の写真、図、手紙、絵などの資料を原本またはコピーで。提供の方法などは個別に相談する。期間は2月26日までだが、収集状況によって2次募集をする。

 問い合わせは沿線市町と県で組織する「銀の馬車道ネットワーク協議会」事務局(県中播磨県民センター産業観光課)、電話079(281)9059。または朝来市教育委員会文化財課、079(670)7330。

写真=現在の姫路市豊富町豊富・城山稲荷神社の東50メートル近辺から撮影した「銀の馬車道」=出典「西光寺野普通利水組合耕地整理組合事業」1915(大正4年)

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