本能寺の変従軍記録「本城惣右衛門覚書」 福知山市が信頼性補強する新説

2021年01月14日 のニュース

 本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の武士が残した唯一の記録として有名な「本城惣右衛門覚書」。惣右衛門が晩年に書いた回想録で、丹波攻略時のことなどが記されている。ただ、文中に度々出てくる「惣右衛門殿」が、著者本人か別人物なのかが定かではなく、文書の信憑性が問われている。そんななか、京都府福知山市が文書の信頼性を裏付ける発見をした。

 惣右衛門は丹波の地侍で、丹波攻略後は光秀に従った。覚書は、本能寺の変から58年後の寛永17年(1640年)に書かれ、惣右衛門は当時80~90歳ほどの高齢期だったとみられる。

 著者と同名の「惣右衛門殿」が文中によく出てくるため、誰を指すのか、歴史研究者たちを悩ませてきた。世襲名で惣右衛門の父親を指すとの説もあるが、市は別の見解を示す。

 市が光秀の丹波攻略に関連する歴史資料をまとめた冊子作りを進めるなかで、市佐藤太清記念美術館(福知山光秀ミュージアム)主任学芸員で、長年丹波の戦国史研究をしている芦田岩男さんが昨年11月、覚書の原文書を所蔵する天理大学附属天理図書館を訪れた。

 原文書のデジタル画像を入念に見た芦田さんは、「惣右衛門」は字の崩しが類似していることでの読み間違えで、「悪右衛門」と読むのが正しいとの説を打ち出した。

 光秀の丹波攻略で、一度は光秀を撃退した黒井城主の赤井(荻野)直正は、自ら「悪右衛門」を名乗り、強さを誇示していた。惣右衛門は直正の家臣だったようで、覚書の「惣右衛門殿」が直正のおいの「赤井五郎(忠家)」よりも常に上位に位置して記述されていることを考えても、つじつまが合う-と説明する。

 芦田さんは「『惣右衛門は記憶があいまいだったのでは』という声もあるけれど、しっかりと書かれていたことの裏付けになる。覚書の資料的価値も高まったのではないでしょうか」と話している。
 
 
写真=本城惣右衛門覚書についての新説を語る芦田さん

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