光秀治水の象徴「明智薮」 ホントは…?
2020年02月27日 のニュース

京都府福知山市ゆかりの戦国武将、明智光秀。市内では、地子銭(税)の免除や城下町の整備など、善政を敷いたことで知られる。もう一つ、大きな功績として外せないのが、治水対策だ。そのシンボルとなっている「明智藪」の呼び方を巡って議論がある。
明智藪は、音無瀬橋の少し上流にある雑木林。丹波平定後、福知山城を築いた光秀が整備したと伝わる堤防で、かつては長さ約500メートルほどあったという。現在は、1952年以降の堤防改修で、北端のみが残っている。
光秀が整備した根拠として、福知山藩主が江戸時代にまとめた「丹波志」に、光秀が堤(堤防)を築いた-との記述があることが挙げられる。しかし、市文化・スポーツ振興課の文化振興担当課長、西村正芳さんによると、この堤が明智藪であると証明する資料は存在しないという。
また西村さんは「明智藪と呼ばれるようになったのは、おそらく戦後からだろう」とし、明智藪の名称が初めて文献に登場するのは、1984年に発刊された福知山市史第三巻だという。
光秀と築城伝説のページに、写真のキャプションとして書かれており、「編さん委員会の執筆者が誰も疑問視しなかったほど、この時点では通称として認識されていたのではないか」と考察する。
では元の名称はというと、蛇ケ端御藪。「堀村代々庄屋記録」の1677年の記述、明治・大正期の地図などでも、この呼び名が使われており、福知山史談会の元会長、塩見昭吾さんも「史談ふくち山七四一号」で、「昔は明智藪と呼んでいなかった」と指摘している。
また、この場所はかつて子どもたちの遊泳場にもなっていて、「藪裏」と呼ぶ市民もいる。
呼び名について、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証を務める静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは、京都市伏見区小栗栖にあり、光秀が絶命したとされる場所の名称も明智藪であるため、「明智藪は小栗栖に譲り、光秀堤にすればどうか」と提案する。
一方で「すでに明智藪の名称で浸透しており、市民にも親しまれている。わざわざ元の蛇ケ端御藪に戻したり、新しい呼び名に変える必要はないのではないか」という声も多い。
名称にはさまざまな意見があり、光秀が築いたという確たる証拠もない明智藪。本能寺の変と同様、真相は“藪の中”ではあるが、福知山で光秀が善政を敷き、市民に慕われているのは事実。大河ドラマで注目が集まるなか、みなさんも考えを巡らせてみては。
写真=光秀が築いたとされる明智藪