本能寺の変、光秀の誤算は… ゆかりの地・福知山で東大の本郷教授が講演
2019年09月24日 のニュース
公益財団法人日本電信電話ユーザ協会北京都地区協会が主催するICT&コミュニケーションセミナーが、京都府福知山市土師のホテルロイヤルヒル福知山&スパで18日に開かれた。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんが、福知山ゆかりの戦国武将・明智光秀の生きざまに迫り、持論を展開した。
本郷さんは中世政治史、中世古文書学などを専門とし、NHK大河ドラマ平清盛で時代考証を務めた。
「『戦国武将は誰もが領地を広げて天下人になりたい』と現代の私たちは思いがちですが、実はそうじゃない」。名将の武田信玄や上杉謙信などを例に、戦国武将がいかに自分が生まれ育った国を守ることに神経を注いでいたかを説明した。
ほとんどの武将が他国からの人材登用に消極的な中、例外としたのが織田信長で「信長は毛色が違いますね。前歴に関係なく優秀な人材を使います」。
光秀は美濃から越前へと渡り歩いていたため「有能だったがよそ者だから、越前でうだつが上がらなかったのはわかる」と話し、活躍の場を求めて信長に仕官したことを説明した。
実績を重ねた光秀は1575年(天正3年)に福知山を含む丹波国攻略にかかると、わずか4年で達成し、丹波一国を任された。丹波国は当時の経済の中心だった京に近い重要地で、本郷さんは「信長から光秀への信頼は厚く、親衛隊だったのではないか」という。
話は光秀が信長を討った本能寺の変へ。本郷さんは謀反の動機ではなく、その後を見据えた光秀の考えに注目した。
暗殺者にとって一番重要なのは任務達成後に生き延びることで、「光秀も逃走のプランを持っていたはず」と力を込める。
自分の領地最優先の時代背景から「日本を均一に治める必要はなく、光秀は近畿を抑えたら十分いけると思ったのでは。中心の京、商いの堺、政治カードの朝廷もある。家臣を路頭に迷わすこともないと踏んだのだろう」と分析した。
ただ、大きな誤算があった。光秀の娘が嫁ぎ、家族ぐるみの盟友でもあった細川幽斎・忠興父子が同調しなかったことで「二重三重の縁がある細川がつかないのか。じゃあ明智につくのはやめようかなという流れが広がったのではないか」と、三日天下に至った舞台裏を読み解く。
城が好きという本郷さん。縦と横の比率で見るといい、「今治城や高知城が好きです」。電車内から何度か見て気になっていたという福知山城については「念願かなって福知山に来ることができました。フォトジェニックな(写真うつりがよい)城ですね」と目を細めた。
セミナーは2部構成で、NTTビジネスソリューションズ京都第二ビジネス営業部営業部門長の井上征哉さんの「ビジネス市場におけるNTT西日本の取り組み~AI・RPA等ICT活用による経営課題解決~」と題した講演もあった。
写真=光秀について語る本郷さん