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両丹日日新聞2015年7月19日のニュース

終戦70年:非戦唱えた陸軍大佐 和平願いつつアメリカで死去

新庄健吉主計大佐
■ワシントンで葬儀中に始まった真珠湾奇襲■

 日本時間の昭和16年(1941)12月8日、現地時間で12月7日の日曜日。場所はアメリカ合衆国の首都ワシントンの教会。ここで一人の男性の葬儀が営まれていた。日本陸軍の主計大佐ということもあってアメリカ側からもそうそうたる顔ぶれの参列者があったが、途中でみな急ぎ席を立っていった。葬儀の最中に、日本軍がパールハーバーを奇襲したのだった。大佐の名は新庄健吉氏。京都府立第3中学校、現福知山高校の卒業生で、死の直前まで日米和平の道を探り、本国へ開戦回避を訴えつつ、願い届かず病に倒れた人だった。

■ニューヨークで情報収集 大本営や駐米大使に提供■

 新庄大佐の出身地は西中筋村(現綾部市)延。福知山市で養子となった末弟の芦田完・京都短大名誉教授が、48年5月18日から24日にかけ両丹日日新聞に「日米開戦に反対した故兄新庄健吉を語る」と題して、コラムを連載している。

 芦田さんは福知山市史編さん委員で、市史第1巻の多くを執筆している最中だったが、三十三回忌法要が営まれたことを機に、自身への私信や新庄家に残された書物などをもとに長文を書き起こすことにした。その理由を「新憲法のもと新生日本はまさに平和を謳歌している今日、今更何を書くとおしかりをうけることであろうが、太平洋戦争直前アメリカにあって兄が何を考えていたかを、兄の郷土の人々に知っていただきたい」からだと説明している。

 連載によると、新庄家は5人兄弟で、長兄は戦時中に村の助役を務めていた。次兄は綾部高女、福知山高女で長く教頭を務めた芦田宗一さん。三兄が健吉大佐だった。

 第3中学校第11回卒業生で、同級生は後の府議会議員、竹下加吉さん、阪根義雄さん、福知山市収入役を務めた佐々木高一さんらの名が挙がっている。
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 3中から陸軍経理学校へ進み、首席で卒業。軍の派遣学生として東京帝国大、大学院で経済を学んだ。陸軍省経理局で職務にあたり、満州事変当時は予算班長だったという。ソ連駐在などを経て15年に主計大佐となり、16年にアメリカ出張を命じられた。任務は諜報活動とされているが、スパイのように非合法に秘密情報を探り出すのではなく、公開されている統計情報を収集し、分析することに力を注いだ。

 芦田さんの連載は「彼は陸軍参謀本部付きの軍人ではあったが、作戦用兵には関係なく、三井、三菱など、日本の在米商社や各種情報機関を動員して、アメリカの軍需物資の貯蔵状態や生産能力などを調査。大本営や参謀本部、あるいは野村吉三郎、栗栖三郎両大使の対米交渉の参考に供していた」と紹介している。

 当時の日米の経済力、工業力の違いは圧倒的。新庄大佐の調査では、国力差が重工業分野で20対1に及ぶことがまとめられており、「対米戦に勝利無し」との報告を大本営に送っていたことが、戦後明らかになった。

 芦田完さんは、アメリカでの情報収集当時の様子を、こう記している。
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 その頃の兄は、事務所をニューヨークに置き、集まる情報を汽車の中でまとめ、ワシントンに持参して、大使館内の会議に加わるという毎日が続いたという。今から思えば日本政府は既に10月の初めから日米開戦の場合の準備をしていたのであるから、彼の任務も緊急性をしいられていたことと察せられる。

 遂に急性肺炎に襲われ、開戦3日前の12月4日(日本時間5日)にワシントンのジョージタウン病院で息を引き取ったのである。詳しくいうと11月の初め頃に、感冒にかかったらしく、同僚からしきりに休養を勧められたが、当時の状況はこれを許さず、その忠告を押し切って任務を遂行しているうち、病状が悪化したのである。

■渡米前から開戦に反対 「世界の大勢を洞察」と同期が証言■

 手元に、連載と同時期に作られた「新庄健吉追憶記」という小冊子がある。芦田宗一さんの遺族、芦田陽代さんから借り受けた。
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死去に際し時の大蔵大臣や、在籍した支那派遣軍総参謀長、福知山中学校同窓会長、中筋村村長らの追悼文などを集めたもので、戦後に陸軍経理学校の同期、川島四郎さんがつづった「追憶」も掲載されている。

 川島さんは新庄大佐を「日米の風雲急を告ぐる米国に派遣されて全国の軍需経済力の調査に専心した。同君が出発前、秘かに私に語ったところは、日米両国の鉄量(同君は物量のことを鉄量といった)その他軍用資材の戦力を論じて、非戦を持していた。対米開戦には反対で、戦前において世界の大勢を洞察して卓越した意見を持っていたのである」と明かしている。

 出身が同じ京都。同じ師団で一緒にソ連へ渡り、「競争するようにしてロシア語を勉強」し、東京に戻ってからは夫人同士も付き合い、家族ぐるみでの「昵懇の親友」だったからこそ、打ち明けることができた秘話だろう。

 「戦ってはならない」との思いは、開戦を主張する軍部や世論の勇ましい言葉にかき消され、新庄大佐の遺体と共に葬られてしまうことになった。

■宣戦布告遅れたのは… 歴史の一説として注目集め■

 大佐の葬儀には、連載後に新しい秘話が加わるようになった。ワシントンでの葬儀に、野村吉三郎、栗栖三郎両大使が参列していたことが分かってきた。

 対米宣戦布告は、真珠湾への奇襲効果を高めるため、攻撃の寸前まで待つことになっていて、新庄大佐の葬儀が終わってから米側に通告する手はずだった。葬儀はすぐ終わる予定。ところが米国人牧師が、新庄大佐の人柄をしのび、大佐が作った英詩を朗読したり、エピソードを紹介したりしながら感動的な弔辞を延々と述べたため、葬儀が長引き、いつまでも席を立つことができず、宣戦布告が遅れた−というもの。

 葬儀に同席した松平康東一等書記官(後の国連大使)の証言や、野村大使から範子夫人に送られた手紙に、葬儀の様子が詳しく書かれている。

 宣戦布告が遅れ、「だまし討ち」になった理由は、世に様々な説がある。

 本国からの暗号の解読、翻訳に時間がかかったから。あるいは前夜に書記官の送別会があり、大使館員らが日曜日に大使館へ出て来るのが遅れたから…などなど。そもそも、最初からだまし討ちにするつもりだったとの説もあったりする。果たして実際はどうだったのか。真相は、分かっていない。


写真上=激動の人生をたどった新庄健吉主計大佐
写真中=板垣征四郎陸軍大臣(右)、林銑十郎元総理(中)らの書が贈られた
写真下=様々な人からの弔辞、追悼文などをまとめた「新庄健吉追憶記」

    

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