【戦後80年 平和へつなぐ記憶の継承】 息子たちが語る出征した兄弟の戦争体験

2025年08月14日 のニュース

生きて帰ってくれたから…

 京都府福知山市大江町波美の古民家から、戦地で使われていた飯ごう、水筒、奉公袋が見つかった。持ち主は岡野敏雄さん(享年84)。2度召集され、無事に復員。敏雄さんの弟・桐村範男さん(享年88)にも赤紙が届き、太平洋戦争末期の激戦地を点々としたが、死線を越え、兄弟とも無事に日本へ戻った。2人の戦争体験はどのように伝わっているのか、戦後生まれのそれぞれの息子たちに聞いた。

同郷・同部隊の人が戦死 つらさ抱え寡黙だった兄 

 敏雄さんの次男、佐藤博行さん(78)=河守=によると、「父は戦争のことをあまり話さなかった」という。大正4年(1915)生まれの敏雄さんは5人兄弟の長男。1回目の召集がいつかははっきりしないが、現在の中国へ。「戦地から戻り、勲章をもらったそうです。それがうれしかったようで、昭和17年(1942)生まれの長男に『勲』の一字を取り、勲と名付けました」

 2度目の召集は太平洋戦争終結2年前の昭和18年。タイ、ビルマに赴き、そのまま終戦を迎えた。

 復員してからは農業一筋で、稲作や養蚕で生計を立て、出征前からしていた水位観測員も続けた。

 戦争のことは、酒を飲んでも語ることはなかった。「同じ集落で同じ部隊に所属していた人が戦死され、そのことがよっぽどつらかったのかもしれません。テレビを見ていても、戦争モノは見ませんでした」。

 だが、「一度、『あの人のためにタイ、ビルマへ行ってくる』と慰霊の旅に出たことがあります」。

離れた部隊が後に全滅 酒を飲むとよく話した弟  

 敏雄さんの弟、範男さんは大正8年生まれ。幼少期に養子に出され、岡野姓から桐村姓になった。昭和15年ごろに召集され、中国、ハノイ、サイゴン、パラオ、ラバウル、ニューギニアなど、高射砲の部隊で、激戦地とされる場所を渡り歩いた。

 範男さんの長男、正人さん(76)=河守=は「家で酒を飲むと、よく戦地の話をしていました」と振り返る。

 その内容は、とにかく食べ物がなかったこと。「現地では草でもヘビでも食べていたのではないでしょうか」。復員したころの体重は38キロだったという。

 終戦後は建設業者に就職。50歳ごろに退職し、山を買って木を売る商売を始め、その後は桐村酒店を経営。大江町議会議員に当選し、2期8年務め、議長も経験した。

 戦時中、範男さんは別の隊員と交代し、日本へ帰ることになった。その後、その部隊は全滅したといい、紙一重で生きながらえることができた。

 戦友ともよく出会っていたといい、正人さんには忘れられない話がある。ある戦友が範男さんに、こう打ち明けたという。「口にはできないことをして帰ってきました」。それが何かは分からないが、戦争のむごさ、過酷さは伝わった。

 取材当日、正人さん宅からも、戦時中の写真を収めたアルバムや当時のたばこのパッケージなどを貼ったノートが見つかった。

 そのうちの一枚の写真は、軍服姿の敏雄さんと、「祝出征」と書かれたのぼり旗を持つ範男さんが並んで写っている。

 「こうやって写真を見たり、戦争の話を聞けたのは父親が生きて帰ってきてくれたから。もし亡くなっていたら、私はここにはいない」

 

写真上から(クリックで拡大)
・「出征當(当)日写」との説明文がある敏雄さん(左)と範男さんの写真
・アルバムなどを見る正人さん(左)、博行さん(中央)と博行さんの妻の則子さん
・岡野家で見つかった水筒、飯ごう
・軍隊手帳などを入れていた奉公袋

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