【戦後80年 平和へつなぐ 記憶の継承】15歳の記憶、95歳の願い「戦争ほどあかんもんはない」 夜久野町の足立悦夫さん
2025年08月15日 のニュース

太平洋戦争末期の1945年7月末、米軍による本土空襲が激しさを増す中、京都府北部の舞鶴でも空襲があった。旧舞鶴海軍工廠で見習い工員として働いていた福知山市夜久野町の足立悦夫さん(95)は、空襲を目の当たりにし、その肌で爆風を感じた。「年をとり、記憶違いもあるかもしれない」と断った上で、「戦争ほどあかんもんはない」と語る足立さん。80年前の戦火の記憶と平和への思いに、静かに耳を傾けた。

旧舞鶴海軍工廠は、舞鶴市に設置された旧日本海軍の造船・修理・兵器製造施設の一つ。主に駆逐艦の建造を担い、横須賀、呉、佐世保と並び「4工廠」に数えられた。
足立さんは、下夜久野村時代の下千原地区に生まれ育ち、小学校高等科を卒業後の44年4月、舞鶴工廠の見習工員養成所に入所した。見習生は全員が寄宿舎に入り、10畳一間に約10人が暮らした。
部屋には先輩も数人いて、この先輩がとても威張った。当時の海軍式で、殴る・蹴るは日常茶飯事で、家族を思い出して枕をぬらすこともあった。
楽しかった記憶もある。「時折、遠足があり、軍歌を歌いながらみんなで行進し、眺めの良い水源地で昼食に五目ご飯を食べました。ささやかですが、うれしかった思い出です」と目を細める。
しかし、戦局が悪化すると事態は一変。当初は1年半と聞かされていた養成期間は半年足らずで打ち切られ、現場で作業する大人の手伝いなどをすることになった。足立さんは主に電気関係の雑務に従事した。
原爆の模擬爆弾投下軍港内は壊滅状態
終戦より半月ほど前の45年7月29日午前8時30分ごろ、突如、1発の爆弾が同工廠の西側山手に投下された。戦後に分かったことだが、この爆弾は原子爆弾と形状や重量がほぼ同じ「模擬爆弾」で、米軍が原爆投下訓練のために使用し、全国各地に計49発が投下された。
当時、足立さんは本工場から離れた分工場で働いていて、お使いで外出し、本工場へ向かうトンネルの中を歩いていた。「突然、『ドカーン』という大きな音が響いたかと思うと、熱い風がトンネルの中に一気に入ってきた。体が吹き飛ばされそうなほどの風圧で、しばらくすると大勢の人が逃げ込んできた」と、当時の様子を語る。
翌30日には、早朝から警報が鳴り響き、日本近海に迫る空母から発進した戦闘機延べ240機が、舞鶴軍港を中心に、栗田湾、宮津湾、伊根湾の艦船や軍施設を攻撃した。
「当時は15歳と若かった。好奇心が勝り、分工場を抜け出し空襲の様子を見に行きました。上空には米軍の戦闘機が飛び回る一方で、迎え撃つ機体はおらず、地上から砲台で応戦するも全く当たらない。完全に制空権をにぎられ、子どもながらに完敗だと思った」
しばらくすると、米軍の戦闘機が1機、低空飛行をしながらこちらに向かってきた。撃たれることはなかったが、パイロットの顔が見えるほどの距離まで近づいた機体は、今でも鮮明に覚えている。
空襲後の軍港内は、白い船体の病院船「氷川丸」を残して、ほぼ全滅状態の哀れな姿だった。

2日間の空襲 学徒の犠牲も
2日間の攻撃による犠牲者数は諸説あるが、「舞鶴市史」には、29日の模擬爆弾で97人、30日の空襲では83人が亡くなったという記述がある。
この数字は工廠内に限ったもので、全体ではもっと多くの犠牲者がいた可能性もあるが、たくさんの人の命が奪われたことに変わりはない。犠牲者の中には学徒動員で集められた子どもたちも。生き残った人の中にも、爆風で吹き飛んだガラス片で両目を失明し、痛みに苦しみながら、その後の長い人生を送った人もいる。
「親元を離れて見知らぬ土地に送られ、戦争に翻弄され散っていった子どもたちが可哀想でならない」。足立さんは言葉を絞る。
平和願う意志次代に継ぐ
足立さんは終戦後、夜久野町に戻り農業を営む傍ら、古里に関する歴史調査を続け、後にそれらをまとめた本を出版。夜久野町史の編纂にも携わり、過去の記録と記憶を後世に残す。
戦後80年が経とうとする今、「戦争ほどあかんもんはない。勝っても負けてもあかん。戦勝国のアメリカだって大勢の人が死んだ。その人たちにも家族があった」と語る。
足立さん自身も年の離れた兄を戦地で亡くし、満蒙開拓青少年義勇軍に参加した小学校時代の同級生は満州で病死した。
「私は実際に戦地には行ったわけではないけれど、戦争のある時代に生き、この目で戦火を見た。今、世界ではあちこちで争いが起き、再びあの悲しい時代に進もうとしているように感じる」と憂う。
「幸い日本は平和な日々が続いていますが、時が経ち、先の大戦を知る人はほとんどいなくなった。『戦争は絶対あかん』。当時を知る私たちの意志が、これからの時代を生きる人たちにも継がれ、心から平和を思う気持ちを育んでくれたらと願っています」
写真上(クリックで拡大)=1936年7月1日に工廠が復活し、新門標を掛けているときの様子。海軍工廠は大正12年(1923)以降、軍縮に伴い工作部に格下げされていたが、準戦時体制が強まる中で工廠へと復活した(舞鶴市提供)
写真中(クリックで拡大)=工員養成所に入廠した頃の足立さん(当時14歳)
写真下(クリックで拡大)=戦時中、友人らと交わした郵便物は大切に残している