光秀丹波攻略と黒井城、戦国時代に見る生き残るための選択 春日で講演会

2020年07月12日 のニュース

 「明智光秀の丹波攻略と黒井城」をテーマにした講演会が、黒井城跡のふもと、兵庫県丹波市春日町黒井の春日文化ホールで5日に開かれた。講師は城郭談話会の福島克彦さん(大山崎町歴史資料館館長)。丹波攻略の最激戦地となった黒井城と、猛将・赤井直正の実像を解説した。

 丹波市観光協会による市民観光おもてなし講座の一つ。新型コロナウイルス対策で座席を一つ飛ばしの定員300人に制限して開催。満席となり、3分の1が福知山など市外からの来場者だった。

 黒井城は標高356メートルの猪の口山に築かれた山城。山頂を南北150メートルにわたって削って城本体を造り、三方に伸びる尾根に曲輪など防御施設を配した難攻不落の堅城だった。その黒井城で光秀を迎え撃ったのが赤井(荻野)直正。「丹波の赤鬼」と呼ばれ、自身で赤井悪右衛門を名乗った猛将だった。現代では悪い意味で使われる「悪」という文字だが、当時は勇ましい、強いことを示すために使われた。

 後世伝わるのは、叔父に当たる荻野氏の当主を宴席で刺し殺し、そのまま黒井城を乗っ取った。光秀を丹波深く黒井城まで引きつけておいて挟み撃ちにする「呼び込み戦法」で一度は破り、二度目の丹波攻めの際に光秀と刀を交えて壮絶な討ち死にを遂げた-との話。
 講師の福島さんは、残っている古文書などの歴史的資料を示し、実際はどうだったのかを説明していった。

 荻野氏は関東から移ってきた鎌倉時代からの名門で、京の都の動乱の影響を受けつつ勢力を広めたり弱めたりを繰り返していた。一方の赤井氏は、当時の新興勢力。荻野氏の中で家督争いが起こり、氷上郡の広域連携を模索するため、何鹿郡(綾部市)にまで勢力を広げる赤井氏の次男、直正が養子に入った。
 その後、赤井氏を率いていた父が亡くなり、長男は早くに死亡していて孫(直正の甥)が家督を継いだが、幼かったため直正が後見役となり、実質的に赤井一族も率いることになった。

 光秀を迎え撃ったのは一度だけ。第1次丹波攻略(丹波攻め)の際だった。黒井城に籠城し、2カ月にわたって大軍を迎え撃った。攻める光秀は、背後の八上城(丹波篠山市)から参陣していた波多野秀治の寝返りに遭い敗退。これを福島さんは「呼び込み戦法ではない」と見る。

 光秀を退けた後に、直正は信長へ詫びを入れ、以後、敵対しなかった。波多野が信長に攻められても助けに行っていない。この事実を基に、波多野と赤井の連携は無かったと分析。波多野の単独反旗だと推測する。
 「波多野は元々、信長に忠実な武将だったが裏切った。近畿の武将はみな信長を裏切っている。そこには構造的なものがあったのだろう。官位を持たず、天皇の命令も受けずに個人で戦をするので、ほかの武将は従う理由がない」と、離反の背景を説明。「信長はなぜ自分が裏切られるのか気付いていない。光秀は気付いていただろう」とも話した。

 では直正の最期は-。病死だった。
 光秀と刀を交えてというのは講談の世界。現実的な路線を取り、1回目の籠城戦後は信長と戦わないようしていた。しかし直正が没すると、残った一族は再び信長に敵対。黒井城は光秀二度目の丹波攻めで落城した。

 福島さんは、この時の周辺の村の動きを資料から紹介し、生き残るために村人たちが明智方へ寝返ったり、山に隠れたりしていったことを紹介。武士も村人も、命がけの選択を重ねていた時代の様子をうかがわせた。
 
 
写真上=講演に先立ち黒井城跡地域活性化委員会による甲冑武者が登場して、戦国気分を盛り上げた
写真下=史実に基づく実像を解説していく講師の福島克彦さん

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