心配させまいと手紙に「寂しくない」 消えない学童疎開の傷跡

2020年02月26日 のニュース

 第二次世界大戦で空襲が激化したころ、京都府福知山市は学童疎開の受け入れ先となった。三和町菟原中の龍源寺も、その一つ。当時疎開をしていた滋賀県大津市の本郷宇三郎さん(83)が、このほど約10年ぶりに寺を訪れた。


■大津の83歳 三和の龍源寺訪れ戦時体験語る■

 今回で3回目の訪問。本郷さんは、お堂で手を合わせたあと、福知山と戦争の関わりについて研究する吉田武彦さん(市立小中一貫校三和学園地域連携コーディネーター)や樋口悟由住職に、当時の様子を語り始めた。

1944年6月、政府は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、東京都、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市などの国民学校初等科の子どもたちを疎開させることとなった。

大阪市は44年夏、3年生~6年生が京都、島根、徳島、石川などに疎開した。その後、期間の延長などが決定。45年3月に、第一次大阪大空襲が起き、1、2年生の児童も追加で参加した。

福知山市では、旧市域や夜久野町、三和町の寺院、公会堂など50を超える施設に大阪市旧大淀区(現北区)の10校約2千人の児童が振り分けられた。

本郷さんは、豊仁国民学校3年時の45年4月から2カ月半ほど、同寺で疎開を経験。同級生の約20人で共同生活を送った。

学校にはあまり行かず、先生らの指導で、寺の庭と階段の掃除などをして過ごした。甘茶を飲むことができ、そんなにひもじい思いはしなかったが、それでも松葉などをかじって空腹をしのいだ。

心に残っているのは、親に出した手紙。子どもながらも、心配させまいと、「寂しくないです」と本心とは異なる文をしたためた。「いつまで経ってもその手紙は、戦争の傷痕として心から消えない」と振り返る。

45年6月、第二、第三次と、大阪は大空襲に遭い、「寺から、大阪の方の空が黒くなっているのを見た」と、今でも鮮明に映像が浮かぶ。第三次で本郷さんの学校は全焼。その後、両親が迎えに来てくれて、近くの寺で疎開していた兄と一緒に滋賀県の親戚のところに移住した。

本郷さんは最後につぶやく。「戦争の体験を伝えることができ、ありがたい。きょうの話が1行でも後世に残ればうれしい」

吉田さんは、福知山の学童疎開についての情報提供を呼びかけている。「記録にとどめて、歴史資料として活用できるようにまとめたい。どうかご協力を」と話している。問い合わせは吉田さん、携帯電話090・6911・7598へ。


写真=龍源寺を訪れ、戦争について話す本郷さん(中央)と吉田さん(右)ら

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