センバツ成美のエース小橋(下) 小学校では捕手

2019年03月13日 のニュース

 センバツ甲子園に出場する京都府福知山市の福知山成美高校野球部。小橋翔大投手(2年)=成和中出身=が「野球の楽しさを教わった」というのは小学生時代のことだった。小学2年生の時、上川口、天津、三岳、金谷地区合同の学童チーム・ドリームスターズで野球を始めている。

 卒団するまでの約5年間、指導をした当時の監督、久世晃さん(45)は「翔大は泣き虫でかわいい子だったが、負けん気は人一倍強かった。2年生で、バッティングマシーンの球をライトオーバーした時は、とんでもない子だと思った」と、その才能に驚いた。

 小学生の時は捕手で、主将も務めた。地肩が強く、6年生ではソフトボール投げで全国大会に出場した経験があるほど。「力はずば抜けていた。今では大きくなって、たくましく感じる。すっかり翔大の大ファンです」

 センバツ出場が決まった時には「翔大が家まで来てくれました。直接報告を受けて泣きそうになった」と話し、その際には「甲子園で暴れてこいよ」と激励したという。

■投手としての土台を作った中学生時代■

 本格的に投手となったのは、中学2年生の時。成和中時代の監督、中川哲治教諭(32)=現・日新中勤務=によると、今は「抜群の制球力」を武器とする小橋投手だが、当初はコントロールが定まらず、1試合で四球を10個以上も出したことがあるという。

 投球を安定させるため、冬場には中距離のインターバル走を繰り返し、下半身を強化。外角低めに徹底的に投げ込んだ。きつい練習だったが、同学年の9人で支え合い、乗り越えた。「9人の結束があったから、今の翔大がある」

 四球で負けた苦い試合がある。2年生の秋は府4強、3年生の春は府8強に入っていたが、最後の夏の大会初戦で、被安打1の0-1で敗れた。失点のきっかけが四球だった。

 犠打を決められたあと、右前適時打を許し二走が生還。それが決勝点となった。試合が終わり、最後のミーティングで中川教諭が「あの四球が、これからのお前の野球人生で必ず財産になる」と伝えると、小橋投手は涙をこぼして悔しがった。四球の怖さを肌で感じた。

 高校生になると、井本自宣監督らの指導を受けて、コントロールに磨きをかけた。昨秋の大会では、65回を投げて与えた四球は8つで、京都優勝、近畿8強入りに大きく貢献した。

 中川教諭は「平常心でいつも通りがんばってほしい。甲子園のマウンドに立ったら、感謝の気持ちを全力プレーで見せてほしい」と応援する。

 

写真=久世監督(右)の話を聞く5年生の小橋選手(中央)

写真=成和中時代の仲間がいたから今の小橋選手(前列中央)がある

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