「日本一の収繭王が福知山に」郷土史家の古川昌宏さん 故・ 荻野嘉一さんの足跡を伝える冊子発行
2026年02月10日 のニュース
■功績と人柄も調べ■
かつて養蚕に生涯を捧げ、繭の多収穫で〝日本一の収繭王〟となった人物が、京都府福知山市萩原にいた。故・荻野嘉一さん(1949年没、享年57)。その足跡と功績をまとめた冊子がこのほど発行された。
同市岩間の郷土史家・古川昌宏さん(69)が『〝日本一の収繭王〟荻野嘉一』として冊子にまとめ、嘉一さんの孫にあたる嘉義さん(81)に完成を報告し、冊子を贈った。
古川さんは郷土史愛好家が集う福知山史談会の会員で、これまで「柿本人麻呂」についての冊子をまとめるなどし、福知山のみならず日本各地の歴史を調べてきた。
今回、嘉一さんについての冊子をまとめたのは、以前から所有していた『京都府案内誌 天田郡ノ部』という古書をじっくりと読み込むことができたのがきっかけだったという。福知山に、それも自分も住んでいる六人部地域に一反(約10㌃)当たりの繭の収穫量で日本一になった人がいることを知り、誇らしく思った。しかも、単に自分が稼ぐだけでなく、研究を重ねて積み上げた技術を惜しげもなく伝授した人だった。
嘉一さんが12歳のころ、火災を被った荻野家は多額の借金を背負った。家族のうち、男手は嘉一さんと嘉一さんの父だけ。農業に生きることを決め、14歳の時には養蚕の研究を始めた。嘉一さんは養蚕業で成功するために、桑を計画的に改植すること、発酵させた牛糞を肥料に葉の厚い良質の桑を育てることなどに重点を置いた。また一方で、仕事への努力を惜しまず円満な家庭を築くことなど、良識人であることをめざした。
明治から昭和の初めにかけて、養蚕業は外貨獲得のための花形産業だった。普通の養蚕農家の一反当たりの繭の収穫量が20貫(75㌔)だった当時、嘉一さんのそれは4倍超の86貫674匁(約325㌔)。
どうしたら多収穫に結びつくのか教えを乞うために、嘉一さん宅を訪れる人は年間3千人~4千人にのぼった。何日も泊まっていく人も珍しくなかった。『反当繭九十貫 多収穫養蚕経営法』という本を出し、全国から舞い込む講演依頼を多忙であろうと快く引き受けた。
古川さんは、古書を何度も読み返し、嘉義さんに取材し、嘉一さんと関わりがあった地元の製糸会社・グンゼに資料がないか問い合わせするうちに次第に浮かび上がってきた荻野嘉一という人物の功績のみならず、人柄にも魅せられていった。
「嘉一さんの実像が分かってくるにつれ、このまま時の中に埋もらせてしまってはならないと強く思うようになりました。福知山のような田舎であっても日本一になれ、時代をリードすることができました。嘉一さんを通して古里の養蚕業に関心を持っていただき、郷土を大切に思っていただければうれしいです」と古川さんは話している。
冊子はA4判61㌻で非売品。15部作り、編集作業でお世話になったところや関係者に配ったほか、2部は福知山市立図書館に寄贈した。
写真(クリックで拡大)=荻野嘉一さんの孫・嘉義さん(左)に冊子を贈る古川さん









