「国産漆の盛衰、転機は明治維新」 史談会で丹波漆理事長講演
2024年08月27日 のニュース
「歴史は現地に学ぶ」との考えに基づく、福知山史談会(河波司会長)による緑陰講座が、京都府福知山市夜久野町額田の夜久野ふれあいプラザで25日に開かれた。講師はNPO法人丹波漆の高橋治子理事長。夜久野と全国の漆の盛衰史を、様々な史料と統計データを基に紹介した。
緑陰講座は、長く「市史を読む会」として机上講座を開いていた史談会が、現地へ出掛けて学びを深める場として2003年に復活させた事業。今年は、NPO理事長として府指定文化財の漆採取技術「丹波の漆掻き」を守り伝える一方、漆芸作家としても活躍する高橋さんが講師を務めた。
■縄文時代から日本の文化支え■
漆器から仏像、社寺建築物といった文化財まで、塗料・接着剤として昔から幅広く使われてきた漆だが、日本での歴史は縄文時代にまでさかのぼる。福井県若狭町・鳥浜貝塚からは約6千年前の赤色漆塗櫛が出土。福知山市でも前田、日新中学校近くの八ケ谷古墳(5世紀、古墳時代中期)から、頭髪にさして使った竪櫛が出土。竪櫛は木の芯や歯の部分が腐食して消え、漆膜だけが残っていた。
江戸時代には全国で盛んに採取された漆だが、明治維新で大きな転機を迎えたという。廃藩置県により、漆の木を管理していた各地の藩が無くなった。大名の調度品需要も無くなり、漆掻き職人が急激に減った。加えて、農家が漆掻きから養蚕へとシフトしていったことも大きい。
一方で明治政府は美しい漆工芸品を外国への輸出品にと奨励。人力車から電車、砲弾などさまざまな分野で漆が使われるようにもなり、減ってしまった国産漆を補うため中国から輸入が始まった。安価な輸入漆が年々増加し、国産漆は減少していく姿が統計で見て取れる。
それでも福知山市の上川口、夜久野方面では、まだ漆の採取が続いた。当時の豊岡県庁が発給した漆掻きの商業鑑札が、上小田の個人宅に残っている。京都の漆問屋には、福知山の人たちと交わした漆の買い付け証文も残っている。講演会場で現物や写真を見せながら高橋さんは「京都で漆と言えば、丹波漆だった」と説明した。
「江戸時代の半分ほどになった」という明治の漆掻き職人。それでも明治15年(1882)に全国で5300人ほどいた。「(生活を支える職業としての採取ではなく、ごく小規模な人も含めて)今は60人ほどです」と現状を報告すると、会場から驚きの声があがった。
■先人の努力に感謝し 4千本の植栽めざす■
戦後は輸入漆に加え合成塗料、接着剤が出回るようになり、漆にとっては一層厳しい状況が続いたが、夜久野では丹波漆生産組合を立ち上げた故・衣川光治さん、組合を引き継いだNPO法人丹波漆で、漆の木の植栽活動に励んだ岡本嘉明・前理事長らの努力もあって、漆の文化が守られてきた。
近年は「日本の文化財の保護修繕のためには日本の漆を」と、国の国産漆保護政策もある。今夏にはNPOが国から「文化財を支える伝統の名匠」選定保存技術保存団体に認定された。高橋さんは「漆の木は育つのに10年から15年かかります。シカなどの獣害が深刻ですが、次の代につなぐため、4千本を目標に漆の木を増やしていきたい」と、抱負を語った。
写真(クリックで拡大)
・豊岡県庁発給の鑑札を示しながら丹波漆について説明する高橋理事長
・漆掻きをするNPO法人丹波漆のメンバーたち。手前は高橋理事長