桂小五郎潜伏や県庁設置 幕末維新の豊岡展

2023年10月27日 のニュース

 激動の幕末から明治にかけての豊岡を紹介する企画展「豊岡の幕末・維新」が、豊岡市立歴史博物館(兵庫県豊岡市日高町祢布)で開かれている。明治の元勲・桂小五郎が身を潜めたり、現在の京都府福知山をも含む大豊岡県が設けられるなど、豊岡は歴史の重要な舞台の一つだったことを概観できる。

 企画展示室の一画を使って、「寺田屋事件」にかかわった田中河内介▽「生野の変」にかかわった多田弥太郎▽長州藩の要となった桂小五郎▽明治の大豊岡県の4章に分けて展示している。

■明治の元勲、出石・城崎で潜伏■

 桂小五郎、後の木戸孝允が出石に身を隠し、活力を養ってから再び歴史の表舞台に登場して時代を大きく動かした姿は、ドラマや映画によく描かれてきた。

 吉田松陰に教えを受け、尊王攘夷派の中心として長州藩で頭角を現すも、急進派が起こした禁門の変(蛤御門の変)」で敗れた長州藩が朝敵となると、身の危険を感じた小五郎は、知り合いの出石出身商人、広戸甚助の手引きで京都から逃れ、出石や城崎で8カ月にわたる潜伏生活を送った。

 企画展では、京都から逃れる道中、正体を見破られそうになり、甚助の機転で通過することのできた出石藩「久畑の関所」跡など、ゆかりの地と甚助の意外な人物像を紹介するとともに、明治になって木戸孝允が甚助にあてた手紙を公開している。

■明治天皇を養育、寺田屋事件に関係■

 田中河内介は今の豊岡市で医師の次男として生まれた。儒学を学ぶため上京。京都で私塾を開いていたが、公家の中山大納言家に仕え、その子女の教育係となる。大納言の娘慶子(よしこ)が孝明天皇との間に祐宮(さちのみや)を産むと、中山家においてその養育を任された。祐宮は後の明治天皇。維新後も河内介のことを懐かしく思いだしていたとされている。

 祐宮が宮中に移ると河内介は中山家を退き、尊王攘夷運動に傾倒、薩摩藩士らと倒幕挙兵を計画するが、「寺田屋事件」で計画は未遂に。河内介は息子瑳磨介(さまのすけ)とともに捕らえられ、船で薩摩へ移送される途中で惨殺され、海へ投げ捨てられた。二人の遺体は小豆島に流れ着き、現地の人びとの手で、いまも供養が続けられている。

 企画展では寺田屋事件直前に、支援者だった但馬出身の医師西村敬蔵へ宛てた手紙などを展示。手紙からは当時の緊迫した状態が伝わる。

■福知山含む16郡 大豊岡県に統合■

 明治新政府の時代に移ると、1871年(明治4年)7月に廃藩置県が施行され、藩知事は解任され豊岡藩、出石藩はそのまま豊岡県、出石県となった。それから間もなく11月に豊岡、出石、舞鶴、宮津、福知山、篠山などの旧藩から移行した県と、久美浜県、生野県などの旧幕府直轄地が統合され、豊岡県が誕生する。但馬8郡、丹後5郡、天田など丹波3郡の計16郡にまたがる大規模な県で、県庁が豊岡町の陣屋跡に置かれた。

 県庁設置により豊岡の人口は急増。病院や警察、郵便局などが次々と設けられていった。この時の豊岡病院が、変遷をたどりつつ、今の公立豊岡病院につながっている。展示では豊岡藩最後の藩主・京極高厚の大礼服や、豊岡県庁の刻印がされたピストル、当時の町絵図、明治初期の豊岡町地籍図、写真などを展示している。

 28日には午前10時からと午後2時からの2回にわたり、展示解説がある。予約不要。

 企画展の会期は来年1月16日まで。時間は午前9時から午後5時までで水曜と年末年始(12月27日~1月4日)休館。一般500円、学生300円、小中学生250円。電話0796(42)6111。

 

写真(クリックで拡大)上から
・豊岡県庁の刻印があるピストルと、後方に木戸孝允の手紙を展示
・豊岡の幕末を伝える館内(多田弥太郎関連資料)

このエントリーをはてなブックマークに追加
京都北都信用金庫
大嶋カーサービス

 

「きょうで満一歳」お申し込み

24時間アクセスランキング

著作権について

このホームページに使用している記事、写真、図版はすべて株式会社両丹日日新聞社、もしくは情報提供者が著作権を有しています。
全部または一部を原文もしくは加工して利用される場合は、商用、非商用の別、また媒体を問わず、必ず事前に両丹日日新聞社へご連絡下さい。