FMラジオ歴史ウォーク
伝説の大江山 神の里から鬼の山へ2 日本の鬼の交流博物館館長 村上政市

馬止めと赤坂
 現在の府道9号のコースとなった旧道(宮津街道)は、宮津藩2代・京極高国の命によって開削され、元普甲道に対して普甲道とも呼びました。先年、文化庁の「歴史の道100選」に指定されましたが、部分的にしか残っていません。

二瀬川渓流 毛原から、その旧道を通って青少年センター(旧物成小学校)へ出たあたりは、小字「馬止め(うまどめ)」と言います。ここ仏性寺には麻呂子親王の鬼退治伝説が色濃く残っていて、親王の軍勢がここまで来ると、一天にわかにかきくもり、ものすごい嵐となって、馬が立ち往生したところから、ここを「馬止め」というようになったのだと言われています。

 すると、そこへ額(ひたい)に鏡をつけた白犬があらわれ、嵐にむかって鏡を照らすと、明るい光がさし、道が開けました。その坂を「あかさか」と言い「赤坂」の地名が今に残っています。

鬼の足跡
 現在の府道の山側に宮津街道の道筋が、はっきりと残っています。以前は見事な石畳道が続いていました。少し歩くと、「鬼の足跡」に出ます。左手の山(骨ケ嶽)の中腹にある「鬼飛岩」から飛びおりた時ついた足跡と伝えています。スケールの大きな話ですね。その横の巨岩が「頼光の腰掛け岩」。こんな大きな岩にどうして腰をかけたのかと首をかしげますが、鬼の話は大きい話の方がよかったのでしょう。与謝蕪村の名句「岩に腰我頼光のつつじかな」は、ここで詠んだ句だと思います。春になると、実に山ツツジが美しく咲き誇ります。

 少し歩くと、先年完成した二瀬川渓流をひとまたぎする大吊り橋「新童子橋」へ出ます。ここから見下ろす渓流は、まさに絶景です。吊り橋から見える丸い渕が鎌渕(かまぶち)。地元の人々は「鎌渕さん」と呼びます。麻呂子親王が鬼を切った鎌を、鬼のたたりのないようにと投げ入れたところと伝えています。あたりは絶好の水遊び場でしたが、昔はこの鎌渕さんへは女の子は入れなかったということです。

 吊り橋の左手、山側にある小祠が「美多良志荒神」です。地元の人々は「みたらしさん」と呼んでいます。麻呂子親王を助けた白犬のつけていた鏡をおまつりしたところと伝えています。

鬼ケ茶屋
 大吊り橋の下、府道沿いに「鬼ケ茶屋」があります。帰途、時間があれば立ち寄りたいと思います。ここは江戸時代、西国三十三霊場の成相寺へむかう巡礼たちの峠の茶屋であり宿場でもあったのです。

 歴代、桝屋と号しています。このあたりの鬼退治伝説関連地を開発したのは、この歴代の鬼ケ茶屋の主人ではなかったか−と思っています。巡礼たちの旅情を慰めようと、いろいろな工夫をしたのでしょう。

 鬼ケ茶屋といえば、鬼退治のふすま絵です。これは幕末、丹後の三大画僧の1人といわれた黙知軒光研の筆によるものです。また鬼ケ茶屋が刊行した「大江山千丈ケ嶽 酒呑童子由来」(初版弘化年中)の版木も完在しています。きわめつけは「酒呑童子愛用の盃(さかずき)」。ご愛嬌の品と言ってしまえばそれまでですが、かなり古い越前焼系の優品のようです。その大きさは、直径15cmを超える大きいもの。酒呑童子にふさわしい盃です。

千丈ケ原
 ゆるやかな坂を登りきると平地が開け、右手に大きな池がみえます。千丈ケ池、かつて仏性寺発電所の貯水池だったところです。このあたりの村が千丈ケ原。かつて十二、三戸の村と古文書にありますが、現存するのは1戸、廃村の危機にあります。ここから右手へ直角についている道は、鍋塚への登山路です。

 鍋塚は、麻呂子親王が鬼退治に成功すると、愛用の白馬が死んだので、その馬を葬り、その場所を鍋塚と言いました。それが後世、山そのものの名となったようです。この鍋塚の鞍部を加悦へ越す峠が加悦峠で、藩政時代は、こちらも加悦も同じ宮津藩領で、結構往来があったようです。加悦側へ少し下りたところに池ケ平(いけがなる)というところがありますが、ここは、白犬を葬ったところと伝えています。

 千丈ケ原をすぎると、植林の間を通りぬけ急坂にさしかかり、カーブも大きくなります。途中、緑の森のオーナー制度の「思い出の森」の大きな看板のあるあたりに、左手へ下りる新しい道がついています。大谷林道で、平家の落人が開いたと伝える北原(奥北原)へ通じています。その途中、木地屋(きじや)集落の跡や、多量の鉄滓(タタラで鉄をふいた残りかす)の散布している北原遺跡があります。昔、ここでタタラを吹いていたのでしょう。このあたり、大江山系で最も深い谷、幽すいな感じのするところです。地元の人々は、この谷を魔谷と呼んでいます。

河守鉱山
 宮津街道を通りぬけると、大江山へむかう町道へ出ます。左手の山ぎわに、庚申塔や大きな地蔵と並んで、大きな石碑が立っています。鉱山のもとになった鉱石の発見者・藤原吉蔵氏の記念碑です。大正6年(1917)、千丈ケ原に発電用のダム工事中、藤原氏が鉱脈の露頭を発見したことが鉱山開発の引き金となりました。

 同年、大江山鉱山と称して銅鉱採掘を始め、本格化したのは、昭和3年、日本鉱業河守鉱業所となってから。盛期は戦後で、日本鉱業のドル箱鉱山として栄え、昭和30年代竪坑の深度は地下500m、坑道の延総延長は70kmに達しており、昭和41年の「採鉱概要」によると、従業員219名とあります。従業員の住宅がたち並び、山内人口1000名を超える府下最大の鉱山だったのです。

 主な採鉱物は黄銅鉱で、他に硫化鉱、クローム鉄鉱、銀鉱がありました。ここで精鉱し、大分県佐賀関製鉄所へ送られていました。昭和44年、折からの鉱山合理化策の一環として休山。残った鉱山諸施設を撤去し、昭和48年に完全閉山となりました。
 なお、現在の青少年センターから山手へ約1kmのところ(及谷)には、昭和9年から20年の終戦まで、兵器生産に欠かすことのできなかったモリブデン(水鉛)を採掘していた仏性寺鉱山もありました。

写真:二瀬川渓流(大江町商工会発行・大江10景より)
大江山 鬼伝説 節分と鬼、酒呑童子を語る
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