草むらの中走った北丹鉄道 廃止から30年
今でも多くの人の心の中に 

 福知山市と大江町を結んだ北丹鉄道が廃止になって30年になる。かつては住民の貴重な交通手段として、多くの人たちに親しまれた。廃線後はほとんどの施設が撤去され、往時をしのぶものはごくわずかとなった。鉄道跡を歩き、沿線の人たちから北丹線の魅力を聞いた。

福知山駅は 国鉄のホームを間借りした
 北丹鉄道は当初、福知山から宮津までを結ぶ計画だったが、実際は1923年に旧国鉄(現JR)福知山駅−河守駅の12.4kmの路線で営業を開始した。その後、宮津までの延伸を夢見ながら、車社会の波に押され、71年営業休止に。その後は復活することなく、50年近い歴史に幕を閉じた。

大江町日藤には、2カ所連続してトンネルが残っている。今は歩行者、自転車用通路として使われている
 北丹線の福知山駅は旧国鉄福知山駅の1番線ホームの西端に位置。国鉄のホームを間借りした形になっていた。現在は北近畿タンゴ鉄道宮福線のホームがあるところで、線路はここから大きく右に曲がり、現在の篠尾新町方面へ伸びて最初の駅「福知山西」へと向かう。両丹日日新聞社の社屋も線路があった周辺に建っている。西駅には北丹の本社が併設され、引き込み線にはディーゼル車や客車などが多く停車していた。

西駅跡には今も線路が
 北本町一区の西駅跡には廃線後、駅があった記念にと、線路の一部を残し、蒸気機関車の「C5856」が据えつけられた。機関車は2年前、広小路通りのポッポランド2号館に移設されたが、園内にはホームの一部と線路が残っている。また駅名を示す表示板のモニュメントが立ち、そこには福知山西の駅名が刻まれ
ている。当時の駅周辺は野原が広がり、美しい田園風景を見せていた。引き込み線などがあった場所は現在、住宅が建ち並び、風景は一変している。
 駅跡に建てられた住宅に住み、よく公園を利用する主婦の古田和子さん(37)は市出身ではないため、北丹鉄道のことはほとんど知らない。公園へはよく子どもを連れていく。「ほどよい広さの公園で、子どもを遊ばせるのにいいですね。でも蒸気機関車がポッポランドに移された時は寂しい思いがしました」という。「駅などがあったことは想像もつきませんが、線路やプラットホームはレトロな感じで、すごくいい。このままずっと残しておいてほしい。子どもがもう少し大きくなったらここに鉄道があったことなどを教えてやりたい」と話している。
 西駅からは和久市町を抜けて川沿いを走った。線路は堤防の中も通っていたため、よく水につか

大江町公庄の鉄橋は赤くさびているが、往時をしのぶ貴重な「遺物」となっている
り、補修や維持費がかかったと言われている。線路の周囲は草が生い茂り、列車はその中をゆっくりと進んだ。

下川駅のホームは地域の人の手で
 漆端にあった下川駅は開業当時はなかった。同地区の人たちは1kmほど離れた上天津駅まで行かなければならず、住民たちはプラットホームを自分たちで造るので、地区内にもぜひ駅を設けてほしいと要望。区民総出で山から土を運び、ホーム造りにとりかかった。工事は3カ月ほどかかり、50年ごろ約100mのホームが完成した。
 作業に携わった横川弘さん(74)は「スコップやつるはしなどを使い、人力で造った記憶があります。地区は水害の常襲地帯だったので、洪水の時はよく列車が止まっていました。また地盤が弱かったのと、砕石が敷かれていなかったので、レールが曲がっていたのを覚えています。いずれにせよ、のんびりとした鉄道でした」
 当時、列車の速度は時速15kmほど。自転車でも追いつける速さで、駅が近づくと列車が止まらないうちに飛び下りたり、発車しかけている列車に飛び乗ったりする人の姿も見られたという。横川さんの妻、百合子さん(72)は大江町出身で、女学校時代の4年間、河守から福知山まで、北丹を使って通学した。「駅員さんとも顔なじみになり、たまに乗り遅れそうになった時は呼び止めると、待ってくれたこともありました」と百合子さん。畑仕事の時もそばを通る列車が時計代わりになっていたという。お名残り列車に乗った時の切符は今でも大切に保存している。

列車の中で交流が 牧川には100mの鉄橋
 同鉄道には道路と交わる部分が7カ所あり、そこには踏切があった。遮断機の上げ下げをする人がいて、漆端には官舎があり、家族で住み安全業務に携わったという。
 下川駅から上天津駅までの軌道は現在、市道広小路勅使線が通っている。3年前に急カーブの連続だった同線を直線の道にと、軌道だった用地などが活用された。下川駅と上天津駅の間には牧川が流れ、同線で一番長い鉄橋があった。鉄橋の長さは約100m。すでに撤去されているが、当時牧川の鉄橋は下荒河の橋梁(りょう)と並び、列車を撮影する最高の場所で、鉄橋を渡る姿を撮った写真が多くの資料に残されている。上天津駅から下天津駅までは国道9号の東側に線路が敷かれていた。下天津駅には当時、小さな駅舎や引き込み線もあったという。駅があったあたりは田んぼが広がり、今では国道から駅へと下りるアスファルトの道が残るだけ。

国道から下天津駅へと通じる道に立つ臼井さん。北丹鉄道の思い出は尽きることがない
 近くで婦人服などのリサイクルショップを経営する臼井保之さん(49)=下天津=は「高校時代は通学で毎日利用していました。自宅から大江町内にあるトンネルが見え、トンネルから列車が出るのを確認したあと、家を出ていたのを覚えています。他の高校の通学生たちとも列車の中で親しくなりました。小学生のころは駅の前の広場でラジオ体操もしました。懐かしい思い出ですね」と話す。
 大江町日藤では軌道が山側を通り、トンネルが2カ所あった。今でもトンネルは自転車と歩行者用の通路として、通学の生徒や地域の人たちが使っている。内部は照明が新しくなっているが、出入り口の壁にはれんがが残り、同鉄道の遺物として多くの人たちに知られている。

今でも残る鉄橋跡
 トンネルのほか同鉄道の遺物としては、公庄駅近くに鉄橋跡が残っている。長さ4mほどの短いもので、赤さびてはいるが、水路橋や道路橋と並んで、しっかりとその姿をとどめている。当時の駅は現在の河西上生活改善センターそばにあった。
 16歳で公庄から京都へ理髪の修業へ出る時、北丹線を利用したという石原滋夫さん(63)=公庄=は「福知山の花火大会を見物に行く時は便利でしたね。水つきの時はよく止まりましたが、公庄の踏切のあたりで列車が脱線したことも覚えています。すぐ復旧して大した事故にはなりませんでしたが、今では考えられな
いような話です」という。石原さんは修業を終えて帰郷する時もやっぱり北丹線に乗って戻ってきた。
 蓼原駅は国道175号沿いの無人野菜販売所「蓼原村の小さな家」付近にあったとされるが、その跡は見当たらない。蓼原駅から終着の河守駅まではわずか900m。河守駅は駅前商店街「ナイン」の周辺にあった。

夢にまで出る北丹線
 長年、河守駅で勤務していた近くの佐藤泰さん(66)=河守=は、20歳すぎから北丹鉄道に勤め、主に同駅の業務にあたった。当時は列車の運行は1日12往復で、駅で切符を切ったり、車掌をしたり、掃除や荷物運びのほか、時には列車の連結作業などもして一人何役もこなした。「昔は交代勤務で駅舎で寝泊まりした
こともよくありました。段々と車の波に押され、運行休止になる時は『しょうがないなあ』とあきらめの境地でした」と振り返る。駅周辺は様変わりして、どのへんに駅舎やプラットホームがあったかはほとんど分からなくなったという。「当時は忙しくて、しんどかったけれども、今となってはいい思い出ばかり。でもあの時のことが夢の中まで出てきます」という。
 鉄道廃止後、プラットホームや駅舎、線路などは次々と撤去され、「遺物」はわずかとなったが、今でも沿線住民ら一人ひとりの心の中に「北丹線」への思いはしっかりと残っている。

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