「鉄道のまち」象徴 幾多のドラマ


 福知山駅が開業して今年度(昨年11月3日)で100周年を迎えた。初代の駅舎は木造建築だったが、福知山鉄道管理局の開局後に全面改築され、1954年(昭和29年)には鉄筋コンクリート造り3階建ての現在の駅舎がオープンした。当時としてはモダンで「鉄道のまち福知山」を象徴する建物だった。戦前、戦後を通じて北近畿の表玄関口となっている福知山駅の変遷、往時の鉄道事情を文献や鉄道関係者、愛好家らの協力で振り返った。
開業100年 JR福知山駅

軍事輸送の必要性で誕生 阪鶴鉄道開通で歴史の幕開け

 福知山の鉄道の歴史は1899年(明治32年)、JR福知山線の前身で、民営の阪鶴鉄道の大阪−福知山南口(後に福知駅に改称)間が開通して始まった。旧陸軍歩兵20連隊が大阪から移駐し、軍都としての色彩を強めたころで、このときに市内内田町付近に福知山南口駅が置かれた。

 当時、まだ山陰道側は民営の京都鉄道の京都−園部間しか開通しておらず、福知山から京都までは大阪回りで直通列車が走っていた。福知山から軍港がある舞鶴までは由良川を汽船が運行し、約3時間で結んだ。由良汽舟商社が傍系会社にあたる阪鶴鉄道は、当時の時刻表に「舞鶴軍港と天の橋立行唯一の線路」と大きく広告を掲載していた。

 福知山南口駅から約1・5km離れた現在地に福知山駅が開業したのは、5年後の1904年(明治37年)。日露戦争の軍事輸送のため、軍港の舞鶴と都市間を早く結ぶ必要に迫られ、官設で福知山−新舞鶴(東舞鶴)間に線路が敷設された。同時に阪鶴鉄道が

明治後期の初代福知山駅
(市郷土資料館所蔵)

一部が2階建てに改築された
(市郷土資料館所蔵)

旧20連隊と福知山駅
(市郷土資料館所蔵)

半世紀前に改築された現在のコンクリート造りの駅舎

新駅舎南側に展示される旧福知山機関区の転車台
(福知山鉄道館所蔵)

旧福知山機関区
、福知山南口と福知山間を結んだ。駅舎の設置場所は京都鉄道の計画が踏襲され、現在地に落ち着いた。さらに西に鉄路を延ばすことを踏まえてルート上などからそうなった。

初代駅舎は小さな木造

 福知山駅の駅舎は事務室、改札口、待合室などが並んだ小さな木造平屋の建物だった。公衆電報取扱駅に指定されていたのも福知山南口駅で、同駅が廃止された1909年ごろから駅の周りが徐々に発展を始めた。

 福知山駅と同時に隣の石原駅が開業したが、こんなエピソードが残っている。当初、福知山−綾部間では、ほぼ中間地点で由良川舟運の舟着場があるため、高津に駅を設ける計画が出されていた。ところが、地元住民から設置に反対する声が持ち上がった。「汽車がとまって便利になると、若者が商業地の福知山に遊びに行くので困る」との理由だった。それがきっかけで石原への設置案が浮上。地元住民が熱心な誘致をした成果で、人家がほとんどない田んぼの中に駅舎ができた。高津駅は半世紀を過ぎた1958年(昭和33年)、無人駅として誕生した。

 阪鶴鉄道で最初、客車をけん引して活躍したのは動輪が3つの小さなSL。1906年の時刻表によると、福知山を通っていた列車は1日5往復程度。大阪までの所要時間は約6時間30分。福知山南口まではわずかな距離ながらSLの加速性能が悪く、8分も費やしていた。

北丹鉄道の乗り場も

 やがて阪鶴、京都両鉄道は国有化され、保津峡の難工事による資金難などで工事が進まなかった園部−綾部間が1910年に開通した。さらに鉄路は西へ伸び、翌年には和田山まで列車で行けるようになった。1923年(大正12年)には北丹鉄道の福知山−河守間が営業を始め、福知山駅に乗り場が併設され、福知山駅は交通の要衝、鉄路の分岐点として一層重要な存在になった。

 駅前広場の光景も乗降客が増えるにつれて移り変わった。当初は人力車や乗り合い馬車が常駐したが、「もっと便利で、鉄道の町福知山にふさわしい駅に」と改築の要望が相次ぎ、初代の駅舎の半分が2階建てになり、昭和初期にはボンネット型の定期バスが走り始めた。第2次世界大戦後にはタクシー乗り場も設けられた。さらに広場には噴水が整備され、列車の旅を終えた人たちの心を癒やした。

 1950年には、福知山に大きな出来事があった。大鉄福知山管理事務所から名が変わり、福知山鉄道管理局が誕生した。全国の27管理局の一つで、福知山のような人口規模の地方都市に置かれることは珍しかった。このころから「鉄道のまち福知山」と盛んに言われるようになった。

 念願かなって現在の鉄筋コンクリート造りの駅舎に生まれ変わったのは1954年。緑地帯を設けたロータリーも整備され、福知山のシンボル的な存在になった。改築オープンから6、7年後には駅前でビルの建築ブームが始まった。

 兵庫県山東町の北近畿鉄道友の会長で、自宅に私設の鉄道資料館をもつ藤尾忠雄さん(80)は、小学生のときからの鉄道ファン。現在の福知山駅舎の誕生時を振り返ってこう話す。

 「山陰線では京都駅に次ぐ大きな駅舎でした。山陰随一の規模の機関区を備えていて、配属されている30両以上のSLに出あいに行くのが楽しみでした。福知山駅をモデルにして鳥取や松江、出雲市駅が設計されたと聞いています」

みどりの窓口や貨物センターできる

 このころ、国鉄は唯一の交通機関で、乗降客は多く、貨物列車も頻繁に走った。福知山駅には1965年、指定券販売窓口のみどりの窓口が開設され、翌年には構内に貨物営業センターができた。

 鉄路の王者といわれたSLが1972年ごろに地元から姿を消し、ディーゼル、電車へと進化するなかで、大阪や京都までの所要時間は大幅に短縮された。現在、特急を利用した場合、大阪までは約1時間30分で、1世紀前に比べると4分の1以下になった。京都まではわずか1時間20分だ。列車の本数も、電化で加速度が増したため、小編成ながら小刻みな運転が可能となり、KTR(北近畿タンゴ鉄道)を含めると1日130本前後が停車する。

 福知山駅のプラットホームは両側に線路が通る島式で、5番乗り場まである。1971年に北丹鉄道が廃止されたものの、1988年に第3セクターとして沿線住民の悲願だった宮福鉄道(現在のKTR)が生まれ、隣接して駅舎が設置された。

 自家用車が急激に増えたため、乗降客は減少している。1987年度は1日平均約1万500人だったが、現在は8500人ほどになっている。

それでも北近畿の中核都市で、周辺部からの通勤が多く、高校が公私立6校もある福知山にとって鉄道は通勤、通学の足として欠かせない。福知山駅は長旅を終えて降り立った人たちに安ど感を与える場にもなっている。

寂しいが、新しい高架駅に期待

 旧福知山機関区で機関士として長年務めた市内内記5丁目の福知山SL保存会長、山本偵二さん(74)は、「福知山機関区で働き始めたころは、まだ木造の駅舎でした。鉄道仲間と一緒に駅前の屋台でよく一杯やっては帰りました。現在の鉄筋コンクリート造りの駅舎に生まれ変わったときは、随分立派になったなあ、と思ったものです。思い出が詰まった機関区が廃止になり、そして駅舎も姿を消すのはとても寂しいことですが、新しい高架駅に期待しています」と話している。


写真上:1955年(昭和30年)ごろの福知山駅。転車台を中心とした扇形機関庫とSL群が見られる=藤尾さん所蔵
写真下:北近畿鉄道友の会長、藤尾忠雄さん

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