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両丹日日新聞2009年7月20日のニュース

ここは基地だった 旧海軍石原飛行場(下)

貴重な証言が次々語られた 指揮所を出て、参加者たちが分乗する車を止めた道まで戻る田の畦(あぜ)では、市街地方面で育った参加者たちからの証言がたくさん出された。米艦載機が石原飛行場を攻撃した侵入コースの目撃証言。「雷が5回、6回落ちたかと思う大きな音だった」という機銃掃射。飛行士の顔が見えるほどの高度だったともいう。
 

 飛行場は山陰線と平行していて見下ろせる場所にあることから、京都、綾部へ向かう列車が福知山駅を出ると「憲兵に窓の鎧戸(よろいど)を下ろせと言われて、みんな下ろしたものだ」との話も多く出た。その中で「見るなと言われたら、よけい見たいもの」と、こっそり窓を開けて見ていたと子ども時代のことを打ち明ける人もいた。
 
写真=石原飛行場についての貴重な証言が次々語られた
 
 前田では愛宕神社の周囲で誘導路などについて、地元の畑源二さん(83)から説明を受けた。
 
 誘導路は広範囲に点在させてある工場や掩体壕(えんたいごう)と滑走路を結ぶ、飛行機のための通路。いくつかあったうちの1本は、現在の福知山自動車学校を斜めに横切り、愛宕神社の前を通っていた。紫電改は翼長が12メートルあったことから、誘導路は12メートルより広かったと見られている。神社の杜(もり)には、古くからの大木が多く、戦後に生えた細い木と竹が生えている場所が誘導路の跡と分かる。
 
 誘導路沿いには、少し広く切り開いた跡も。飛行機の駐機場跡だ。土の指揮所近くでは京都市内から運んできた竹でアーチを作って飛行機を隠していたが、愛宕神社周囲の駐機場に覆いはなく、誘導路沿いの木から伸びた枝が空からの目隠しになる程度。練習機の「赤とんぼ」が止めてあったといい、畑さんは「戦後しばらくは参道(石段)わきに3機が残されていましたが、ある日、夜のうちになくなっていました」と話す。
 
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 参加者の一人は「川北から雀部小学校まで滑走路を横切って登校し、終戦後に川北橋のたもとにも飛行機があって、操縦席にのぼろうとして手も髪も油だらけになった。緑色の飛行機だけど、どんな飛行機だったのかは分かりません」と話した。掘りおこす会によると、終戦時には各地から数百の飛行機が疎開してきていて、機種もいろいろあったという。
 
 戦時下ではあらゆることが軍優先になる。その例が、愛宕神社にはあった。「五人抱えの大きな杉の御神木があるのですが、先を切って滑走路の誘導灯をつけたんです」。個人の財産だけでなく、人びとが大切にしてきた神社の御神木さえ、切ってしまう。
 
 終戦を迎え、接収された用地を食糧増産の農地に戻すのがまた大変だった。今のように重機があるわけでなく、滑走路の分厚いコンクリートをつるはしなど人力でめくり、重たい石を何度も往復して運び出した。捨てる場所がなく、石垣のように積み上げられた石が、各地に残っていた。
 
 畑さんは前田地区の役をしていた1998年に、用があって日新中学校の下にある口池の登記を調べたところ、地目が「飛行場」のままになっていた。いまは本来の「ため池」に戻したが、戦時中のままの地目は、まだほかにも残っているかも知れない。
 
 

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