両丹日日新聞7月14日のニュース
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聴覚障害者の五輪・デフリンピックに出場 旧福商サッカー部出身四方恒さんが世界の舞台へ

 サッカーがあったからいままで頑張れた−。かつて福知山商業高校(現福知山成美高校)サッカー部で汗を流した四方恒さん(27)=大阪府吹田市=が、来年1月に開かれる聴覚障害者のオリンピック、デフリンピックに出場する。場所はオーストラリア・メルボルン。福知山の地で練習に明け暮れていた少年が、日本代表チームの一員として強豪ひしめく世界大会の舞台に立つ。
デフリンピックに出場する四方さん
ボールける姿に心引かれ入団

 綾部市出身。生まれつき聴覚に障害がある。3歳から、健聴者と同じ生活ができるようにと、言葉や発音の訓練をさせられた。そのおかげで、健聴者と同じ学校に通え、口の動きや身ぶりで周囲の人とのコミュニケーションがとれるようになった。

 そんなある日、母親に連れられ、兄が所属するサッカー少年団の練習風景を見学した。ボールをけっている姿に心引かれ、翌週には入団した。

 小学3年からゴールキーパー(GK)を任され、それ以来高校まで自軍選手の背中を見ながらゴールを守り続けた。どんなピンチも防いでチームの信頼を得られる、チームの守護神でいられることが魅力。92年、欧州選手権で優勝したデンマーク代表のシューマイケルが理想だ。

いじめにあうも仲間に支えられ

 音が聞こえないことで、しばしばいじめに遭う少年時代を過ごした。ひどいときには「死にたい」と悩み、いつも孤独を感じていた。中学3年のころは、担当教師の働きのおかげでいじめはすっかりなくなった。中学、高校を通して一番楽しい1年だった、と振り返る。

 高校時代は2年生のとき、レギュラーとして出場し、両丹新人戦で優勝した。しかし、みんなの会話についていけず、悔しい思いを味わうこともあった。くじけそうになる心を支えてくれたのは、やはりサッカーだった。そして少年団の時から一緒だったサッカー仲間。高校で離ればなれになっても遊びに誘ってくれた。

予選全試合出場し代表の責任果たす

 高校卒業後、筑波技術短期大学へ。ゴールキーパー以外のポジションも経験する。そこで初めてデフリンピックのことを知った。その後、大阪府内の会社で働きながら、会社のサッカー部に所属。他にも聴覚障害のチームでプレーしている。けがに見舞われ、調子を崩すこともよくあった。健聴者と違って声を出しても聞こえないため、空中戦や飛び出すときに味方選手とぶつかるなど、危険も多い。

 3年前、デフリンピックの代表候補に選ばれ、合宿などに参加してきた。練習のかいあって、ことし5月のアジア太平洋地域予選では全試合に出場。「いままでこのために頑張ってきたし、これまでの成果をみせてやろう」と意気込み、カザフスタン、シンガーポールなどを下した。3位決定戦でマレーシアに勝利し、デフリンピックへ出場することが決定した。

 予選中には、右足のくるぶしに、過去に骨折したと思われる傷が見つかった。手術が必要で、ほかの古傷もうずくなどしたが、なんとかこらえ、デフリンピック出場を果たすことができた。痛みに耐え、日本の代表として責任を果たせた事がうれしかった。

 4年前の世界大会でアジア勢は下位に終わっている。世界には強豪国がそろっているので、本番では決勝進出を目標にし、アジア勢の飛躍を目指したい、と意気込んでいる。

 両親の英夫さんと滋子さんは「息子の夢がかない、親としてはうれしい思いで、夢の実現のために応援してやりたい気持ちでいっぱいです。あとは試合のときに自分の力を精いっぱい発揮し、けがのないように祈るだけです」と喜んでいる。

国民のみなさん応援、支援を

 出場決定の喜びの裏で、デフリンピックの知名度の低さにがく然としている。オリンピックやパラリンピックなどと違い、渡航費などは自己負担で、企業や各種団体に寄付を募り、渡航費などの資金集めをしている状態だという。「僕たちも日本の代表として誇りを持って世界へ行くのですから、国民のみなさんに認めてもらい、少しでも応援、支援をして頂けたら」と強く願っている。

 現在、足の手術のため大阪府内で入院し、リハビリ中。サッカーから離れ、他の選手から遅れをとるが、焦らずにリハビリに励む毎日を過ごす。復帰すれば、レギュラーの座をつかんでデフリンピックに出場したいという強い意志がある。少年時代から培った精神力で、世界の選手を相手に戦う。


写真:日本代表として出場する四方さん


水車作りの技を今に伝える夜久野町の中島 尚之さん 奥が深く、今も修練の日々

 コトコトと音を立てて回る。昔は日本各地の農村風景として見られた水車。情緒があり、農を支える「道具」としてもてはやされたが、今では観光用以外ほとんど見かけることがなくなった。水車を作る専門の大工も減る中で、夜久野町の中島尚之さん(68)は本業の建築業の合間を縫って、水車作りの技を今に伝えている。その技術は家作りと同じで奥が深く、日々修練が続く。

 水車は水の流れる力で羽根車を回転させ、水のエネルギーを機械エネルギーに変え、その力を精米や製粉、水のくみ上げなどに利用する。戦後、農機具が普及して精米が機械動力で出来るようになるまでは、農村地域ではなくてはならないものだった。

小屋までも自分の手で

 中島さんは子どものころから水車に興味を覚えた。50年前の18歳のころに、滋賀県に住む水車専門の大工のところで修業し、技術を覚えた。普通水車と言えば、羽根車だけでなく、精米などをする小屋も含めたものを言い、専門の大工はすべてを自分の手で仕上げる。中島さんもそう。家屋建築と同じように、きちんとした設計図を描き、それを基に作っていく。材料は製材所で一つひとつ刻む。現場で組み立てていくため、1cm、1mmの誤差も許されない。

鉄くぎは1本も使わず

水車作りに情熱を傾ける中島さん 「観光用の水車は鉄くぎが多く使われていますが、わたしは1本も使わない」という中島さん。くぎの代わりに木のくさびを使う。羽根車は中央の芯棒にいくに従って外に膨らんだ形にする。水車は中国から伝わったもので、膨らんだ形にするのも中国伝統の技術。中島さんはそれを忠実に守っている。材料は外材を使わず、国産のアカマツを用いる。

 水を受ける輪の部分はもちろん、小屋の中の米などをつく仕組み作りも難しい。また水源確保も大事な作業で、建築、土木についてあらゆる知識が必要になってくる。

 これまで手掛けた水車は約50基。直径3mから大型の10mのものまで様々。「最初のころは失敗も多かった。きちっとした機構の水車ができたのは作り始めて6、7基目ぐらいでしょうか」。美山町などの府内や滋賀県内のほか、若いころは富山や新潟県などの遠方にも出掛け製作に没頭した。

 直径3mの水車を完成させるためには3カ月ほどかかり、値段は約450万円する。大型だと1000万円以上するものも。水車でついた米は機械のものと比べ、粒が削れず、水分の蒸発も少ないため、おいしいごはんになるとされている。

 昔は福知山市内の農村の各地区にあり、需要があったが、最近では地区で製作を依頼するところはなく、個人的に「家族だけでおいしいお米が食べたいので作ってほしい」と、直径1mの小型水車の注文がくる。

ミニチュアも製作

 水車製作のほか、ミニチュア水車作りにも励んでいる。こちらのほうもキャリアは40年ほどになる。本物の20分の1の大きさで、羽根車や小屋内の機構も実物大と同じ仕組みに作る。小屋の屋根はスギ皮やカヤでふき、引き戸にして、壁にはこれもミニサイズの竹ぼうきやスコップ、みのなどを置いて雰囲気を盛り上げる。

 13年前に兵庫県旧大屋町(現在養父市)のあゆ公園にふるさと創生基金でできた直径8mのジャンボ水車も中島さんがこしらえた。軸が老朽化して、回りにくくなったため、金属製のものに変えたが、そのほかはほとんど作られた当時のままだ。今でも公園のシンボル的存在となっている。

失敗をステップに

 現在は10年ほど前に古里、但東町久畑の公園内に作った水車を移動しなければならなくなり、その作業を進めている。「水車小屋通う老母ほたる舞う」。趣味の俳句作りでも水車を詠んだ句が多い。

 これまで多くの水車を作ってきたが、自身で納得できるものは「まだまだできない」という。失敗を次のステップにして前に進む。「途中で妥協をしていたら、ここまで続いていなかったと思う。毎日が勉強です。死ぬまで納得いく水車はできないかもしれない。でも水車作りをやめた時、あのころに作った水車が最高のものだったのかなあ、と思う時があるかもしれません」と話す。

 日々、技を磨きたい。いつまでもその思いは頭の中で回り続ける。


写真:水車作りに情熱を傾ける中島さん


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